第3章 月の王子(第10話)


《第10話》


もう全部どうでも良い。

でも諦めた訳でも悟った訳でもない。

もうずっと、この肌の下で蠢く欲望に振り回され、疲れ果てただけ。

何もかも、誤魔化しが利かないほどに。


誰でも良いから助けて欲しい。

でも具体的にどうして欲しいかを考えるのは面倒臭い。

突然やってきた誰かが、私に相応しいとびきりの幸福を与えるのを待ってる。

無意味で独りよがりな苦しみと我慢が

実を結ぶと信じてた。


どこにも逃げ場はない。

私はこの《海辺せかい》から永遠に出られない。

死ぬ事も許されない。


あれからも変わらず、

私の耳元で彼が囁き続ける。

”殺してやる”と。


頭がおかしくなりそうだ。

もうとっくの昔に狂ってるのかもしれないけれど。


海の上には相変わらず

私を監視するようにモントが浮かんでいる。


「……あっ。」


ふと1つの可能性が頭によぎる。

何で今まで考えつかなかったんだろう。


このモントを壊せば

ここから出られるんじゃないんだろうか。


私はモントに近づき触れてみる。

ひんやりとしていて、とても硬い。

素手で壊すのは難しそうだ。

出口を探す為に歩き回った時は

武器になるようなものは落ちていなかった。


「……。」


たった1つだけ望みがあるのなら、

このステンドグラスの欠片だろうか。


けれど本当に良いのかな。

もしモントが壊れたとして、

今度こそ永遠にここから出られなくなるかもしれない。

なにより、かつて希望と幸福の象徴であった欠片をそんな事に使うなんて。


それでも試してみるしかない。

今、自分にやれる事をやるしかない。

最後にはきっと何とかなる。


「馬鹿みたいだ…。」


明後日の方向に前向きで、無責任な言葉。

これは信念じゃなく無思慮の果ての行動だ。


私は欠片を握り、振りかざした。


あれだけ硬く感じられたモントの表面に

驚くほど簡単にヒビが入る。

それでも耳元の声は鳴り止まない。


「殺してやる。」


不快だけれど、もうこの声にも慣れてしまった。

激しい絶望はなく、代わりに少しずつ心が消耗していく。


セメントで固められたみたいに

まったく顔が動かない。

感情とリンクしない涙だけが

静かに流れていく。


何度も欠片を突き立てられたモントは

落としたゆで卵みたいに

全身がひびだらけになっていた。


限界だ。

あと一滴グラスに垂らしたら

全てが溢れ出してしまう。


何の為かも分からないまま手を振り下ろす。


パキン、と音がして

モントはバラバラに砕け散る。


その瞬間。

時間、空気、音、あらゆる全てが

ピタリと止まった。

身体も動かず、息もできなくなる。


あの声だけが耳元で聞こえる。


モントが、景色が崩れていく。

私の意識も離散していく。


このままでは自分が消える。

主観性が、自我が、認知が、統一性が

消えてしまう。


激しい恐怖と、孤独感。

こんな時でも私は1人ぼっちだ。


誰も私を助けない。

誰も私に興味がない。

誰も私の絶望に関心を向かない。

皆、自分の周りの苦しみで精一杯だ。


誰も、誰もいない…。


「王子…寂しいよ…。」


王子は私が壊してしまった。

もう誰も、私の世界には存在しない。


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