第3章 月の王子(第7話)


《第7話》


私達はずっと空を見ていた。

月も星もない無機質な夜空を。

もう殆ど背後まで迫る暗闇に背を向けて。


いつしかそれが日常になっていた。


「王子はお腹空かないんですか?」

「前にも言った、モントがあれば王国の人間は飢える事はない。

食事だけじゃない、入浴も睡眠も…無駄な事は全部必要なくなる。

僕にとっては何もかも好都合だ。」


王子はあの日から少しだけ、私と話をしてくれるようになった。


「お風呂はともかく

睡眠や食事が面倒なんて事もあるんですね。」


そう返すと、王子はしばらく黙っていた。

今までのように無視してる訳ではなく、

ふさわしい言葉を探しているようだった。


「…僕がまだ城にいた頃、

食事も睡眠も入浴も管理されていた。」


彼はいつもより少しだけ感情の乗った声を出す。


「自由がない生活は息苦しくて…

だから頭の中に自由を求めた。

そこだけは僕だけの聖域だ。

沢山本を読んで、知識を詰め込んで

そこに永遠の広がりと不可侵の空間を作り上げたんだ。」


私が相槌を打つ間もなく、王子は話を続ける。


「けれど、陰気な変わり者として

家族からも家来からも煙たがられるだけだった。

…それでも良かった。自由を失うくらいなら孤独で良いと思っていたんだ。」


王子は空ではなく、私の方へ顔を向ける。


「モントさえあればそれで良い…この完全なる球体さえあれば良いと思っていた。

でも結局満たされる事はなかった。」


彼の瞳に私が映る。

まるで暗闇のような深い黒色の瞳。

何度もその横顔から見えていたはずなのに、

初めて目にする気がした。


「モントがあっても何も変わらない…。

何もかもが虚しくて悲しいな。」


王子はまた何処からかパンを2つ取り出す。

1つを私に手渡し、それからもう1つを手に持つ。


「……食事なんて久しぶりだ。」


王子はまじまじとパンを見つめている。

まるで初めて食べ物を見る人のようだ。

私達は同時に口に含む。


「…やっぱり楽しくもなんともない。」

「そうかな?これはこれで楽しいですよ。」


王子は眉間に皺を寄せながら咀嚼する。

無理やり胃に詰め込むように飲み込むと、

はぁとため息をついて寝転んだ。


「久々に食事をしたら酷く疲れた。

次は久しぶりに寝てみる。」


そう言って王子は目を閉じる。

私はまた暇になったので再び空を眺めた。

しばらくするとスゥスゥと小さく王子の寝息が聞こえてきた。


肉体的に睡眠が必要ないなら、

この寝息は精神の休息なのかな。

そんな事を考えながらボーっとしていると

何処からか聞き慣れた声がする。


「…ちゃん。」


バシャバシャという水音と共に

声の主が近づいてくる。


「ひまりちゃん…!」


それはモーだった。


「ひまりちゃん、助けに来たよ!」


散々無責任に振り回してきたのに、

何で今になって助けにきたの?


「……ここまで泳いできたの?」

「うん、かなり大変だったよ!」


モーはびしょびしょの身体で

私に飛びついてくる。


「でもこのままじゃ、ひまりちゃんが暗闇に飲み込まれちゃうと思ってね。大急ぎでやってきたんだ!」


相変わらず調子が良いなと悪態つきながらも

内心ホッとしている自分がいる。

モーが来てくれた後は色々ありつつも

何とかなっているからだ。


モーは私の手に小さなナイフを握らせる。


「さぁ、これで王子の心臓から

欠片を取り出すんだ。

そうすればこの王国からも出られる。」


そうだ。

いつものようにこれで王子を刺せば…。


…いつものように?


これまでの王子は2人とも醜い怪物に変身し、

私に襲いかかってきていた。

だから心臓にナイフを突き立てる事に強い抵抗感はなかった。


でも今回は違う。

月の王子は人間のままだし、私に悪意を向けている訳でもない。

そんな彼の心臓を刺して、

無理矢理ステンドグラスの欠片を取り出すの?


横にいる王子を見ると、相変わらず寝息を立てて眠っている。


「ひまりちゃん、今がチャンスだよ!

起きないうちに早く刺し殺すんだ。」


刺し”殺す”という言葉に身体が固まる。

そうか、怪物になり襲ってこなければ

これは殺人と同じだ。


ここで刺さなければ、私は暗闇の中に消えてしまう。

でも…また自分の保身の為に誰かを見捨てるの?


「ひまりちゃん、早くしないと!」


私を急かすモーの声と、王子の寝息。

それから波の音。


選ばなければ。

あの時の後悔を乗り越える為に正しい選択を。


私の手に握られたナイフが王子の左胸へと向かっていく。


なんだ、下らない…。

結局私はいつもそうじゃないか。


迷ってるふり、後悔してるふり…。

冷たく淡白な心。


思い切り力を込めて、そのままナイフ突き立てる。


「…君には心底がっかりだ。

でもこれで良かったんだろう。」


いつの間にか王子は目を覚まし、

私の事を見つめていた。


「少しだけ分かり合えたと思った。

でも自分の事ばかり。

まぁ…それは僕も同じか。」


王子は服をはだけさせ、胸元を見せる。

ナイフは心臓ではなくモントに突き刺さっていた。


「モントを左胸に隠しておいた…。」


月でも空でもなく私を見つめる王子の瞳。

それはどこまでも冷たく、軽蔑と絶望の色を帯びていた。


「君だけは分かってくれると思っていたのに。」

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