第2章 花の王子(第10話)


《第10話》


私はまだ庭園から動けずにいた。

あんな言葉、無視してしまえば良いのに。

指先が冷たくて、身体が動かない。


この世界が現実と同じ?

そんな訳ない。

揺籠の女王のせいで本当の姿に戻ってないだけだ。


ズル…ズル…

ぼやけた感覚の中、何かを引きずる音がする。


私が頭の中で作り上げたこの世界は

完璧で、幸福で、優しくて、

これこそが正しい姿で。


ズル…ズル…

音が近づいてくる。


ここには冷淡さも狡猾さもない。

だから私は心から安心して世界と溶け合う事が出来る。


ズル…ズル…

音が私の背後で止まる。


振り返ると、そこには怪物がいた。


逃げるとか、どうしようとか、

そんな事を考える暇はなかった。

怪物から伸びた無数の手が

私を引き摺り込む。


視界が暗くなる。

胃液のような香りと、ドロドロとした粘液。


もう全部面倒臭い。

ずっと前から、生まれた時から。

何で頑張らないといけないんだろう。


美しさも、真実の愛も、本当は建前だったのかもしれない。

欲しかったのはオートマティックの幸福と

脳みそに流れ込む快楽の電気信号。


私は何も考えずに目を閉じた。


-----


ドクンドクンと何かが弱々しく脈打つ。

その小さな鼓動で私は目を覚ます。


動けない。

自分の身体を見ると

内臓のような肉壁に四肢が取り込まれている。


目の前には人間姿の王子が座っていた。


「ひまりちゃん、一緒にお茶しようよ。」


爽やかに、明るく、

いつもの笑顔で王子は話しかけてくる。

私は力無く頷いた。


その瞬間、ズルッと身体が壁から抜け落ちる。


「王子、私…。」

「ひまりちゃん、僕はね。

ちゃんと君と話したかったんだよ。」


王子はティーポットを持ち、

湯気の立つ液体をティーカップへと注ぐ。

それは紅茶ではなく吐瀉物と肉片が浮いていて、ケーキ皿にはぐちゃぐちゃになった人の腕が乗せられていた。


「……気持ち悪い。」


私がティーカップを突き返すと、

王子は悲しそうにカップの液体を見つめていた。


「…僕はずっと空っぽだった。

どんなに楽しくても、どんなに悲しくても満たされない。何もかもすぐに移ろい行く。

そしてその空虚感さえも消え失せる、本当の伽藍堂だ。」


王子は何の躊躇いもなく

ティーカップに口をつけ、飲み込んだ。


「私も同じ、全部虚しいよ。

でも王子と結ばれれば、幸せになれるって信じてこの国へやってきた。

なのに何もかも上手くいかない。」

「僕達、どうすれば良かったのかな。」


あぁ、そっか。


「私も王子も身の丈にあった人生を選ぶべきだったのかな。」

「身の丈にあった人生?」

「多くを望まず、夢も見ず

ただ手元にあるものだけを大切にする人生。」

「でもそんな人生つまらないよ。」


ずっとそうだったのに

今になって分かった。


本当は王子も、私も相手に興味なんてないんだ。

本音という名の発声をして、コミュニケーションの真似事をしているだけ。


「ここじゃない何処かにあるものは

全部諦めろって言うの?

ひまりちゃんだってそんなの嫌でしょ?」

「嫌だよ、だからこの世界に来たいと願った。」


自分にしか興味がない、自分にすら興味がない。

だから心の底から感じた苦しみを

精一杯の言葉で伝えても通じ合う事はない。


「王子、やめようよ。

こんな会話して何になるの?」

「そんなの決まってる。

何にもならないよ。」

「じゃあここから出して、時間の無駄だよ。」


いきなり王子は強い力で私の肩を掴んだ。


「…変な事を言うんだね、ひまりちゃん。

だって全部そうじゃないか。

どんなに哲学的な話をしても、どんな賢人と居ても何の意味もない。」


王子の表情が小さく歪む。

私の肩を揺さぶりながら話を続けた。


「だから僕はこの綺麗な花の王国で、

お茶会をして、ダンスパーティーを開いて過ごした。全て無駄なら楽しい方が良いから。」

「王子…痛いよ。」

「ひまりちゃん、ちゃんと食べてよ。

この紅茶とケーキ。」


王子はケーキ皿に乗った腕を

無理やり口に捩じ込もうとする。

必死で抵抗するが、力負けしてしまう。


私は自分のポケットに手を伸ばすと

そこにはケーキナイフがあった。


躊躇いはない。

手に力を込める。


王子は私に馬乗りになり、

今度は液体を飲ませようとしていた。


ベタベタとした内臓の床。

口に広がる血と生肉の味。


私は王子の心臓めがけてナイフを突き立てた。


ぐにゃりとした嫌な感触が伝わり、

赤い血液が穏やかに流れ出す。


王子は驚いて胸に刺さったナイフを見つめる。


「ひまりちゃん。」


彼はゆっくりと顔を上げた。


「ごめんね。」


王子は子供のような笑顔でそう言った。

それから身体が枯れた花のように乾燥し、

最後にはバラバラになってしまった。


辺りの景色が変わる。

私はまた森の中にいた。


カランと音がして、何かが目の前に落ちた。


それは美しい薔薇が描かれたステンドグラスの欠片。

この王国で何もかもが終わった証だった。

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