第2章 花の王子(第7話)


カツ、カツ、と無機質な靴の音がする。


私はビルの階段を上がっていた。

何かをする為に上がっていた。


いいや、本当は違う。

私はずっと、何もしたくないから階段を上っていた。


心まで底冷えした体温が私から判断力を奪っていく。

この階段を上りきれば、嫌な事は全部なくなる。

だからあと少しと、自分に言い聞かせて

機械的に足を動かし続けた。



《第7話》


指輪を奪った胎児の後を追って私は走る。


これだけ大きな足音を立てて走っているのに、

城内の誰も気にしていないようだ。

よく考えてみると廊下には誰もいないし、

やけに静かだ。


胎児はハイハイで逃げているのにとても早い。

私の足では追いつかないどころか、どんどん距離が空いてしまっている。


ついに私は完全に胎児の姿を見失ってしまった。


どうしよう。

指輪がなかったら王子と結婚出来ない。

そうなったら私は幸せになれない。


身体が寒い。

この国は比較的温暖な気候なのに、まるで真冬に外にいる時みたいだ。

それにとても静かで誰の声もしない。


ぼんやりとした視界がふっと黒くなる。


「え?」


暗い場所に飛ばされた、というよりも

急に視力を失ってしまったという感じだ。

突然の出来事に驚いて固まっていると、

急に聴覚だけが敏感になる。


遠くから聞こえる喧騒と風音。

そして私の呼吸と心臓の、それはとても懐かしい音。


何が起こったの?


「思い出さないといけないのに。」


耳元で声が聞こえる。

感情のないその声は、

間違いなく私自身のものだった。


次の瞬間パッと視界が開ける。


私は再び城内へと戻ってきていた。

そして目の前にはあの胎児が

四つん這いのままで私を見つめていた。


「諦めて。」


今度は泣き声ではなくて、はっきりとそう言った。


「諦めるって何を?」

「幸せになる事を。

それが許されるのは私だけなんだから。」


死んだ魚みたいな、正気を感じられない瞳。

その瞳の中に私が映っている。


「ひまりちゃん、どうしたの…?」


また後ろから声が聞こえる。

振り向くとそこには王子が怯えた顔で立っていた。


「……王子!」

「この人、一体誰?

何で城にこんなのがいるの?」


王子は不安そうな足取りで私に近付いてくる。

私は王子を庇うように背中に隠して、胎児に向き合った。


「王子、貴方も諦めて。」

「諦める?

ど、どういう事なの?」

「幸せになるのを、自我を持つのを諦めて。

ここは私が幸せになる為の世界なんだから。」


そういうと胎児は指輪を取り出し、親指と人差し指の間に挟む。


「私の指輪…!返して!」

「や、やめてよ!

それは僕とひまりちゃんが結婚する為に必要なものなんだ!」


胎児はお構いなしにぐっと指に力を入れる。

途端に指輪は粉々になり、欠片がパラパラと床に落ちていった。


「あっ…そんな…。」


唖然とした王子の声が廊下に響く。

私の指で美しい薔薇を咲かせたソレは

銀色の粉となり、床の埃と混ざり合ってしまった。


「もう諦めて。」


胎児はそれだけ言うと背を向け、

のそりのそりとゆっくり去って行く。


私は胎児を追いかけようか迷ったが

それよりも王子が心配で慌てて駆け寄った。


「王子、大丈夫…?」

「指輪…なくなっちゃった。」


王子は無表情で呟く。


「もう駄目なんだ。

僕は永遠に幸せになれないんだ。」

「そんな事ない、指輪なんてなくても大丈夫だよ。

また別の似たものを作れば良いじゃん。」

「それを1番信じてないのはひまりちゃんでしょ?」


王子は冷たく鋭い瞳で私を見る。


「もう良いよ、全部終わったんだ。」

「…王子?」


王子の身体から小さな緑色の何かが見える。


「この世界に僕を幸せにしてくれる誰かはいない。

ひまりちゃんだって本当は分かってたんでしょ?」


緑色が王子の身体の表面を覆う。

それは植物の芽だった。


芽は少しずつ成長して、奇妙な花を咲かせた。

最後には大きな食中植物のようになり、王子を包み込んでしまった。


「ひまりちゃん、助けてよ…。

誰でも良いから助けて。」


花弁から無数の手が蠢く。


「助けるってどうしたら良いの…?」

「そんなの分からない。

ひまりちゃんが考えて。」


完全に怪物になった王子を見て思う。

あの時と同じ、もう戻れないんだ。


『諦めて』


先ほどの胎児の声が頭の中でこだまする。


「私だって本当は諦めたいよ。

でも諦めきれない。」


ずっとずっとそうだった。

私は進む事も諦める事も出来ないままだ。


きっとこの世界でもそれは変わらないのだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る