ある日の記憶1


「そういえば、最近よくシンイチくんと遊んでるんだってね。」


背中からお母さんの声がした。

柔らかい声色と口調。

でもそれは引き攣った笑顔のようだった。


「うん。」


肯定する以上の事はせず、自分の部屋に戻ろうとする私を無視してお母さんは話を続ける。


「あの子のお母さんとお父さん、

離婚してるのに同じアパートに住んでるらしいのよ。

ズルしてお金貰ってるって噂があってね。

シンイチくんもきっと大変ね。」

「……お母さんとお父さんの話だよね?

シンイチくんは関係ないと思うけど…。」


背後でお母さんの空気が張り詰めるのを感じた。


居心地が悪い。

早く逃げたい、離れたい。


「そうよねぇ。

ズルはダメだけど、シンイチくんは関係ないもんねぇ。」


わざとらしい猫撫で声が部屋に響く。


「お母さんは別に無理して友達作らなくても良いと思うな。勿論、シンイチくんといるのが本当に楽しいなら良いのよ。

でもひまり、人見知りでしょう?だから焦って誰でも良いから仲良くなろうとしてるなら心配だなぁ。」

「そんな事ないよ。

私はシンイチくん、面白くて好きだから。」

「へぇ、どこが?」


唐突な質問に私は考え込む。


シンイチくんと遊んでる理由、

面白くて好きって思う理由。


一緒にいる瞬間の楽しくて満ち足りた気持ち。

それが全てだけれど、お母さんを納得させられそうな理由は思い浮かばない。


「聞かれてすぐに言えないんだ。

そうだよね、いきなりだったもんね。

でもお母さんなら1番大切な友達の好きな所はすぐに答えられるなぁ。」


いつもお母さんはこうだ。

言いたい事の責任は取らないのに、

私は思う通りに動かそうとする。


「別にシンイチくんと遊んだらダメって事じゃないからね。

お母さんはひまりが小学校で無理してるんじゃないかって心配だったのよ。」

「うん、ありがとう。」


それなら私だって自由にするよ。


最後までお母さんの顔は見ないまま、私は部屋に戻った。



次の日も、その次の日も

“お母さんの言葉通り”シンイチくんと遊んだ。

だってシンイチくんといるのは本当に楽しかったから。


そしてそれが何ヶ月か続いたある日。

その日、私はリビングでおやつを食べていた。


キッチンに立っていたお母さんが

ふとこちらへ歩いてきて隣に立った。


「ひまり、ちょっと立ってくれる?」

「え?」


よく分からないけれど、私は何も考えないまま反射的に立ち上がった。


次の瞬間、バシッと音がして頬が熱くなる。

それからピリピリとした痛みに変わり、

私はお母さんにビンタされたのだと理解した。


混乱しながらお母さんの顔を見ると、

無表情なのにその冷たい瞳にはドロドロとした憎しみが宿っていた。


「あんたは何て酷い子なの。

お母さんがあんたの為にどれだけ我慢したか知ってるの?」


身体が固く、冷たくなっていく。


「何の為に10年もお義母さんと住んだと思ってる!

あんなわがままな婆さんと10年も、何言われても耐えて。あんたの為でしょう。

なのにあんたはお母さんの為に何もしてくれないんだね。」


どう返事をしようか。


「もうあんたみたいな恩知らずなんて知りません。今日からは親子やめましょう。

勝手に野垂れ死んで後悔して下さい。」


そう言ってお母さんは玄関から家を出て行った。


私は呆然とした後、泣きじゃくりながら外に出てお母さんを探す。

けれどどこにもいなくてお父さんに電話をかけた。


電話口のお父さんは落ち着いていて、

いつも通りの時間に帰ってきた。

そしてお父さんが買ってきた晩御飯を食べた後、車でお母さんを迎えに行く事になった。


「ひまり、お母さんに謝りなさい。」

「でも私、悪い事してないよ。

お母さんは嫌って言わなかった。」

「悪くなくても謝りなさい。

大人になったらそういう事もあるから、その練習だと思うんだ。」


お父さんは運転しながら淡々と話す。


30分くらい経っただろうか、私達は知らない町の知らない家に着いた。

チャイムを押すと知らない女の人が出てきて、

お父さんはその人に頭を下げていた。


玄関から部屋に向かう途中、お父さんがぽつりと呟く。


「お父さんだって悪くないのに謝ったんだから

ひまりもお母さんに謝りなさい。」


謝りたくないよ。

お母さんがはっきり言わないから、私もそうしただけ。


「…分かった。」


心とは裏腹に私は頷いていた。


リビングに通されるとお母さんが後ろ向きで座っていた。

骨細で細身の身体、サラサラとした黒髪。

見慣れた背中だ。


お父さんがじっとこっちを見つめる。


「お母さん、ごめんね。」


私がそう謝るけれど、お母さんはぴくりとも動かない。


「ひまり、何がごめんって思うんだ?」


隣でお父さんの冷たい声がする。


何にもごめんなんて思ってない。

全部、心底馬鹿馬鹿しい。


「シンイチくんと遊んでごめんなさい。」


それでもお母さんは動かない。

お父さんもじっと立ったままで何も言ってくれない。


「シンイチくんと遊んで、お母さんを悲しい気持ちにさせてごめんなさい。」


その言葉を聞いて、お母さんは振り向く。

わざとらしく涙を流していて、

私に罪悪感を抱かせるような表情を浮かべていた。


「ひまり、ごめんねぇ。

お母さんいなくなって不安だったでしょ。

あの時言った事は本当じゃないよ、見捨てたりしないからね。」


お母さんは私をぎゅっと抱きしめる。


「うん、私こそごめんね。」


まるで台本がある演劇だ。

こんな嘘っぱちの薄っぺらい言葉で

お母さんは満足するんだね。


でも私、お母さんみたいだ。

本当の気持ちは言わないで、自分にとって何かが上手くいくように動いてる。


だから何をしたって本当は何一つ伴ってないんだ。


私も、お父さんも、お母さんも全員空っぽだ。私の人生も、この世界も空っぽだ。

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