ちょっとだけ未来人

江戸文 灰斗

その錯覚の名は

 階段を超高速で駆け登る。マズい、また遅刻だ! なんでこう僕は朝に弱いんだよ!

 ドライアイの目を瞬きして潤した。そんな暇はないのに勝手に瞼が閉じてしまう。時計を見ると九時二十三分と十五秒、少しして十六秒のところに秒針が移動した。なんだっけこれ、ふと時計を見た時に一秒が長く見えるやつ。

 気にはなるけど、ゆっくりを思い出している暇は無い。僕は一段飛ばしで上の階へ向かった。


 四階の扉を開くとヘンテコな匂いが飛んできた。戸棚では色とりどりの液体が泡を立てている。反応を起こさないように重たい遮光カーテンで閉ざされた空間の奥にその人はいた。


「君は――朝に弱いのかい?」


 稲田女史の液体窒素みたいな声に刺された。彼女は部屋の端にぽつんとぶら下がっている蛍光灯をつけた。全体が薄ぼんやりと明るくなる。

 稲田女史。僕よりひとつ年上で、大学の(一応)先輩。化学・物理・生物・地学のあらゆるものに精通していて、科学の世界で知らぬものは居ない天才なのだとか。

 つけられた異名は『人類三年分の未来』。誰も彼女の脳みそに追いつくことは出来ないと言われている。

 そして僕。普通を極めているような人間だが、稲田女史と出会ってすぐに気に入られてしまった。以来、西へ東へずっと振り回されてきた。どうして僕なのか未だによく分からない。天才の考えることは凡人には理解不能らしい。

 

「風邪がまだ治りきってないみたいで」

「起きてからの動きが緩慢なのでは?」


 僕の弁明は間髪入れずに稲田女史に一蹴された。日常会話で『緩慢』という言葉を使っている人を初めて見た。その豊かな語彙を尊敬できるけど、もっと歩み寄った言葉遣いは出来ないのかな……。

 

「すみません」

「んで、どうなんだ」

「ちょっと、わかんないです」

 

 稲田女史はガッカリしたという気持ちを隠そうともしない。最大限の申し訳なさを伝えたつもりだったのに。

 

「……はァ、まあいい。三分ほどの遅れだ」

 

 稲田女史は僕への興味を失ったのか、持っていたノートパソコンに目を向けた。いいのだったらあの冷たすぎる目はなんだったんだ。思わず突っ込んでしまいそうになったが、そんなことをしてしまえば今度は絶対零度をお見舞いされる。

 

 僕はデイパックを床に置いて、コーヒーを淹れる準備を始めた。カセットコンロでお湯を沸かしていると、稲田女史は自分の机に乗っかっていたビーカーを僕の隣に黙って置いた。僕は自分のマグにインスタントコーヒーの粉を山盛り一杯とフレッシュを入れた。蓋の裏についていたフレッシュが目元に飛んでくる。地味に嫌なんだよなこういう攻撃。僕は目を瞬かせて角砂糖を一粒落とした。あ、まただ。

 

「私は八つだ。フレッシュはいらん」

 

 しれっともどっていた稲田女史はノートパソコンから目線を逸らすことなく言い放った。僕はため息をついて、ビーカーにコーヒーの粉と指示通り角砂糖を八つ入れた。

 

「そういえば調子は?」

「調子? ――ああ」

 

 稲田女史から風邪薬を貰ったことをいま思い出した。見たことないパッケージだったが、女史がくれるんならきっとよく効くんだろうと思って飲み続けている。

 実際効き目はよく、二日ほどでかぜは治った。

 

「それは良かった。――効果の賜物か。思わぬ収穫だな」

 

 そういう彼女に明らかな嘲笑が浮かんだように見えたのは気のせいだろうか? 唐突に呼び出されてこの仕打ちか。

 

「薬の効き目を聞くために呼んだんですか?」

 

 僕は顰めた顔を隠すことなく言った。しかし悪びれた様子もなく、稲田女史はケロッとして「まあ」と返してきた。

 

「まあ、って……」

「すまないな」

 

 砂漠よりかわいた返事。この人に人情というものはないのか? 一度心理学を勉強して欲しい。(とは言っても稲田女史のことだから、既に網羅していてもおかしくはない)

 

 僕は慌てて右手を押さえた。そして思わず握りこんでいた拳を力ずくで開く。危なかった、もう少しで事件だった。精神力の強さだけは稲田女史を上回っている自信ある。

 それにしてもさっきから妙に砕けた雰囲気だ。いや、口調は一切変わっちゃいないが、不思議と舞い上がっているように見える。

 

「ところで、最近変わったことは無いか?」

「うーん、朝に弱くなったくらいですね。」

「そうか。治験ご苦労さま、もう行っていい」

 

 稲田女史は左手をヒラヒラ振って自席に戻った。もう話は終わりということなんだろう、僕はそそくさと持ってきたデイパック背負った。ん、治験?

 

「もしかして」

 

 僕はなんて恐ろしい想像をしてしまったんだ。誰か否定してほしくて、いまここに居る唯一の他人――稲田女史の方を震えながら見た。

 

「ん?」

「この薬って」

 

 僕は昼食用に分けてあった風邪薬を目の前に掲げた。

 

「ああ、私が作った」

 

 そうだ、前言を撤回しよう。ここに居る一般人は僕だけ。目の前の奴は悪魔だ。

 

「そう気を落とすな。風邪は治ったんだろう?」

 

 そういうことじゃない! 僕は心の中で叫んだ。治験ってことはまだ実験段階じゃないか! 一体どんな副作用が起きるかもよく分からないものを僕に渡したってことか。

 キッと睨むと、彼女はニンマリと口角をあげた。くそう、先のとがったしっぽと羊のような角が見える……。

 

「ただ、まだ自覚が起きるレベルではないのが残念だな。理論では上手くいったと思ったんだが。あれが閾値に達しなかったのか、こいつの身体に耐性があったのか……」

 

 何やらよく分からないことを呟いてぐるぐる歩き回っているうちに稲田女史は思考の海へ潜ってしまったようだ。

 

「発動条件か? ラットではどの時に能力を発現したんだったかな」

「あの、稲田女史?」

「なんだ」

「能力って?」

「貴様の脳を私に近づける能力だ」

 

 なるほど。僕の脳を稲田女史に近づける能力ね……。

 

「いやですよそんな能力! 早く戻してください!」

「……」

「なんでそんな嫌そうなんですか」

「戻し方が、わからん」

 

 珍しく歯切れの悪い返事に僕はガックリ肩を落とした。

 

「まあ薬の効果が切れれば治るから安心しろ」

「それっていつまで」

「早くて三日、そのままいけば一週間だな」

 

 一週間この変人と同じ頭ってことか……。

 

「お前、今失礼なこと思っただろ」

 

 僕はちぎれそうなくらい首を振った。テレパシーまで持っているのかこの人は。

 

「完全な私にするのは無理だからな。ただ私のそれに近づける能力」

 

 頭の中ではてなマークがサンバを踊ってる。僕は彼らを早々に追い出したが、隙あらば色んなところから入り込んでくる。

 

「どういうことです?」

「頭の回転に関すること、かな」

 

 そう言って稲田女史はピタリと動きを止めた。また口元がだんだんつり上がっていく、同時に僕の鳥肌が立つ……。

 

「そうだ、いいことを思いついたぞ」

 

 稲田女史は角砂糖八個入りのコーヒーを慌てて飲み干し、机の上に散らばって現代美術みたいになっていたラムネやら携帯やらを白衣のポッケに入れだした。

 

「おい、出かけるぞ!」

 

 僕はスキップしている稲田女史に引っ張られて部屋を後にした。


「しかし、どうやったら証明出来る?」

 

 階段を降りている時も、こうして駅前の通りを歩いている時も、稲田女史はずっと腕を組んでうんうん唸っていた。

 

「ちょっと稲田女史、前向いて歩いてくださいよ」

「うるさいなお前が前を見てろ。ちなみに私が転んで頭を打とうものなら世界の損失だからな」

 

 なんて凶悪な脅しなんだ。こんなの気をつけて歩かざるをえないじゃないか。

 

 開発の波に覆いつくされようとしている街は今日も工事、工事、工事。あちこちから重機の鳴き声がする。それなのに稲田女史ときたら、もう僕の声すら届かなそうなくらい集中して考えこんでしまった。すごいけど、ちょっと引く。

 

 一方僕は道の溝、木の葉、それから降ってくる小さなコンクリートの破片に至るまで全部に意識を向けて歩いていった。集中力散らしまくりだ。

 

「コンクリの破片?」

 

 僕は空を見上げた。立ち止まった隣人に気づかない稲田女史はサンダルの歩みを止めない。

 

「稲田女史ー」

「どした?」

 

 名前を呼ばれてやっと稲田女史が動きを止めた。

 

「なんですか、あれ」

 

 僕の声を受けて、稲田女史も空を仰いだ。

 

「なんだろうなぁ、あれ」

 

 そうか、こんな天才でも現実逃避するんだなぁ、と僕は悠長に構えていた。工事中のクレーンから鉄骨が外れそうだっていうのに。


 現実が頭に追いついた。冷や汗。鳥肌。脚が竦む。咄嗟に思いついたのは『世界の損失』。考えなきゃ。目を閉じて集中力を――ってそんな暇ないよ!

 

 こんな時にもまただ!

 

「女史!」

「なんだ!」

「瞬きとか、ふとみた時にものが止まって見えるってなんですか!」

 

 稲田女史はバッと僕の方を見た。そしてにやりとする。また悪魔の角が見えた気がする……。

 

「クロノスタシスだ」

「クロノスタシス?」

「目を瞑れ」

 

 彼女の言葉に慌てて目を閉じる。ガッチンという絶望の音がした。鉄骨が落ちてきているみたいた。

 最初はそよ風みたいな音だったのに、今は怪獣の雄叫びのような地響きを伴った声に変わっている。それも視覚が遮断されてしまうと余計に意識してしまう。

 耳元でなってる気がする! 目を開けたら死んでるんじゃなかろうか! にぎりこんだ拳から血が滲む。

 

「今だ! 開け!」

 

 稲田女史は悲鳴に似た叫びをあげた。

 目を開く。ほら、鉄骨が目の前だ。手を伸ばせば届きそう。だけど。

 

「クロノスタシスだ」

 

 思わず呟いてしまった。いやいや、そんなことをしている場合じゃない。僕は稲田女史の手を掴んで走り出した。

 やっとのことで鉄骨の下から逃れた瞬間、腰が抜けた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 稲田女史を見た。彼女は止まっていた。いや、止まっているというより、恐ろしく『緩慢』だ。

 

「え?」

 

 鉄骨が落ちる音がしたのと同時に稲田女史も動きの滑らかさを取り戻した。頭蓋骨まで響き渡るような轟音。

 

「私たちは、生きているのか」

 

 稲田女史は自分の手のひらを見つめて眉を潜めている。そりゃそうだ、あんな状況から生き残ったんだから。

 

「今のってなんだったんでしょう」

「急にお前が超高速で動き出したと思ったら、鉄骨の下から移動していた」

「僕が、超高速?」

「やっぱり、あの薬は成功じゃないか!」

 

 またはてなマークが踊りだしてしまった僕を尻目に、稲田女史はその場でスキップでもしそうな舞い上がり具合だ。

 辺りは騒然としている。それは鉄骨のせいか、僕のせいか。野次馬の三分の一くらいが僕と稲田女史を見ている気がする。

 

「これがお前の脳を私に近づける能力だ」

 

 稲田女史は得意げに鼻をふくらませた。

 

「天才と呼ばれる由縁はこの脳のスピードだ」


 稲田女史はクルクルした長髪に包まれた頭蓋を叩いた。


「ならば、だ。同じだけのスピードを持った脳を作ればいい。その時どうする?」

「えっと、人造人間とか?」


 僕の答えに稲田女史は頭を抱えた。


「そういうことじゃない」

「じゃあ、頭の回転をはやくする薬を作るとかですか?」


 稲田女史はパスっと指を鳴らして僕を指さした。

 

「That's right! だが、その薬を作る目処は立たなかった」

「どうしてですか?」

「貴様らが私の脳に耐えきれないからだ。私からしたらある意味三年前の人間なんだからな」


 そういった彼女はどこか苦々しげだった。あの異名というかあだ名みたいなものはあんまり好きじゃないのかな。僕はかっこいいと思うのに。


「そこで、三倍速で動かせる人間がいたら私に追いつけるじゃないかと思ったわけだ」

「それで作ったのがこの世界を遅くする薬ってことですか?」


 稲田女史は先程同様、得意げにうなづいた。

 さっきあの時、世界がゆっくり見えてたんじゃなくて、本当に遅くなってたってこと? そんなこと不可能だろ。いや、稲田女史なら或いは……。

 

「お前の体感時間を延ばす薬を投与した。その間、身体能力も体感時間に対応して向上する。だからコンカイノヨウニテッコツヲヨケラレタンダロウナ」

「へぇ?」

 

 急に稲田女史の口調が速くなった。とてつもなく速い。いや、言葉だけじゃない、周りの全部が早送りになってる。

 稲田女史が不思議そうな顔をして僕の前で手を振っている。それがヘリコプターの羽みたいに何個にも見えた。

 

「オーイオーイ、オサまったか……?」

 

 しばらくして稲田女史の速度が元に戻った。周り的には僕の速度が戻ったの方が正しいんだろうけど。

 

「大丈夫です」

「急にスローモーションになったな。世界を遅くするとその分のディレイがあとからやってくるんだな。新しい発見だ」

 

 僕の心配をそこそこに稲田女史はまた考えを巡らせはじめた。


「ディレイを解消する方法を探さなくてはな。しかしこれは世界側からの明らかな干渉作用と言える。面白いな、世界の歪みを自ら治そうとするのか。これは自我と呼べるのか? いや、単に世界による自己修復能力の一種と思うべきか、或いは……」

「女史?」

「なんだ」

「帰りません?」

「そうだな」

 

 僕は稲田女史の手を引いて元来た道――は鉄骨で塞がれてたから少しだけ回り道をして部屋へ戻った。道の溝、木の葉、それからコンクリートの破片に気をつけながら。

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ちょっとだけ未来人 江戸文 灰斗 @jekyll-hyde

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