11. 宿直
薄暗い闇。ところどころに灯されている灯りも闇を照らすまでには至らない。
久々に訪れた帝の住まう清流殿。そこでの
(人が多いな……)
先日の魔の件以降、依夜は二日床に臥せっていた。その依夜の薬の調合や問診、生薬の買い出しなどもあり、生成もここ二日ほどは神殿へ出向いていない。
その間に、帝の私邸である清流殿と公務の場である紫神殿には多数の神官が詰めるようになったらしい。
(しかもこの結界……)
かなり強力な結界が貼られている。強化という意味では、あの魔を見てしまったから致し方ないとも言える。しかし。
(柔軟性はないな。まさかないとは思うが、魔が一点集中の攻撃をしてきたら……破られる)
魔の侵入を防ぐには結界を張るのが一番手っ取り早い。その結界の張り方は、どういう効果を期待するかによって違いがある。
ここに張ってある結界は強力なものだ。数年に一度起こる
たとえ一点集中攻撃をしたとしても、この結界を破ることができるような魔がそうそう存在するとは考えにくい。それでも不安がよぎるのは、先日取り逃した魔を見たからだというのは否定できない。
普通の魔ならば、
近くを通りかかった神官を捕まえ、結界のことを訊く。
「ああ、生成殿はまだご存知なかったのですね。これは雅殿の指示で、
「雅殿が……?」
雅なら、この張り方の脆弱性など百も承知のはず。
「少々危険ではないだろうか。もう少し柔軟性を持たせたほうが良いように思うが……」
集団が押し寄せた場合の耐性は劣るが、一点集中されても多少たわんで耐えられるようにするほうが今はいいのではないか。
「それも話し合われていたようですが、こうして増員して一撃突破を防ぐという方向で行かれると」
「なるほど。わかった、手を止めてすまない」
「いえ。それでは」
歩き去る神官の背を見送りつつ逡巡する。
(あれは生霊だった。明確な害したい相手がいるはず……)
それが帝ではないとは言い切れない。ここは恨みも憎しみも多い場所だ。誰かが賞賛される陰で、堕ちていった者が大勢いることくらい知っている。臣下として見たくもない派閥争いも多く見た。
その者たちの恨みが最終的に帝へ向くのはなんらおかしいことではない。
あの魔がもしこの結界とぶつかったら一体どちらが勝つのだろう。もしあれがここへ来た場合、増員しているとはいえ押さえられるのだろうか。
(……杞憂ならば良いが)
これが雅の采配だというには違和感がある。しかし、決定的におかしいというものでもない。生成が雅に言ったように、もし魔が意図的に呼び寄せられているならば、類を見ないほどの数の魔が百鬼夜行する可能性は十分にある。
言われた通りに動いて様子見するしかないだろう。
「そういえば、今夜から依夜殿も復帰なされているはず」
依夜が床に臥せっている間、紫上局に薬は渡していて直接は会っていない。それでも、体調が悪いまま寝殿へ出仕することを紫上局は許さないだろう。だとすれば、体調は戻ったのに違いない。
おそらく、生成の調合した気を鎮める薬も今度はちゃんと飲んでいるはずだ。
「どこだ……」
我儘な姫のお守りはごめんだが、今は神官だ。多少冷静さに欠けるとは言っても
生成のほおに冷たい水滴がかかった。同時に、湿った音が周囲を包む。雨だ。渡殿には屋根があるが、それでも時折風に吹かれて雨粒が降りかかる。
まだ夜は冷えるというのについていない。
東の方へ目を向ける。生成の視力ではよく見えないが、そこは帝が昼間の公務に使う
今の時間はあまり人は居ないだろうが、魔にはそんなことは関係ない。見回りに行った方がいいだろう。
渡殿を紫神殿の方へと歩き始め、遠くに白い狩衣らしき影をとらえた。
顔など見えるはずもない。しかし、月光のような光が白い狩衣を覆っているのはわかる。金の髪。歩き方の癖を見ても依夜だ。紫神殿の方へ歩いていく。
その少し後方から、もう一人誰かが歩いて行くのが見えた。その白い狩衣は誰なのかわからないが、体格から男なのはわかる。
「————チッ」
舌打ち。急ぎ紫神殿へと向かう。
こんなことは一度や二度ではない。それを依夜が知らないのは仕方がないが、悪態はつきたくもなる。
自分から人気のない方へ行くなど不用心だが、宿直としての役目を果たしているだけなのは責められない。その不愉快さに苛立ち、足を速める。
わざと足音を鳴らすと、男が足を止めた。ふり返った男に近づく。知らない顔だ。袙の色は黄。一つ下の階級の神官だ。
「依夜殿を
「これは生成殿。尾行けていたとはまた大袈裟なおっしゃりようを……。いえ、神楽巫女退位の儀についてのご相談がありましたもので」
女性神官は、婚姻前の交わりのないうちは神の妻として神楽巫女を兼任している。具体的には、神事での巫女舞の奉納が役目だ。
もちろん依夜もその役目を担っていた。しかし婚姻が決まった以上、神楽巫女を続けることはできない。神に退位の申し出をし、最後の巫女舞を奉納してその役目を終えるのだ。
「今か? 今は職務中でおられるが」
「あ、いや、ちょっとしたことだったのです。その日の神殿勤務の調整をと思いまして」
「それは私が訊いておこう」
「あ、いえ……はい。お願いいたします。それでは、私はこれで……」
男はしどろもどろになりつつ、生成に一礼して引き返して行く。
神官だからと言って善人ばかりではない。自分がその最たるものだ。それでも虫唾が走る思いがする。
「依夜殿!」
声を張り、渡殿を曲がる。そこに月の光が差していた。
ふり返った依夜のほおがきらりと光ったように見え、足を止める。
いや、見えるはずがない。だからきっと見間違いだったのだ、そのほおが濡れていたように思ったことなど。依夜が一瞬生成に背を向け、慌てたように顔を拭ったことなど。
雨足が増す。降り込む雨に濡れたのだろう。
気を取り直して依夜のそばに歩み寄る。
「生成か……紫神殿になんの用だ」
硬い口調はいつもの通りだ。
「それはこちらの台詞です。神楽巫女退位の儀の事で、あなたを探している者がいましたよ」
心底嫌そうな顔をした依夜に、知らず口角が上がる。
「今は職務中だと諌めておきましたが……天緑の長としての職務は人の多い清流殿で果たされるべきかと」
「————ッ」
「こちらは私が見回りましょう。あなたは下の者に指示を出されよ。それとも」
言わない方がいい、そんなことはわかっている。それでも、生成の口は止まらない。
その時に感じていたのは、紛れもなく高揚感。
「逢い引きのお相手でもいらっしゃったのですか?」
「————⁉︎」
生成の目にも、依夜の表情が険しく変わったのがわかった。その強い視線が燃えている。
(あぁ……なんと……)
目を細める。よく見えない事がもどかしい。
「そういうことは、私の目の届かないところで————」
「ふざけるな!」
罵倒と言うに相応しい声量が生成の鼓膜を貫く。射るように生成を睨みつけた依夜と視線が交わる。
「……図星でしたか」
「貴様ぁ‼︎」
胸ぐらにつかみかかった依夜が生成をゆするが、所詮は女の力。生成を動かす事が出来ずにいる。
どうして止めることが出来ないのか。そんなことはわかっている。依夜から向けられる嫌悪に、自分だけに向けられたその感情に悦びを感じているからだ。
「依夜殿! いかがしました⁉︎」
依夜の大声に、複数の神官の声と足音が向かってくる。
「————くそッ」
帝妹として花よ蝶よと育てられた人物としてはおよそ似つかわしくない悪態を吐き、依夜がうつむく。そのまま手を離し、無言で歩き去って行く。
そのほおに、また雨の雫が落ちた。
「……降り落つる雫は君の袖濡らす
小さくつぶやき、湿った笑いを漏らす。
蛙など今はいない。生成に問う者などいないのだ。それに原因など、わかっているのだから。
「はっ、馬鹿馬鹿しい……」
雨足は強くなるばかり。ふり込んだ雨は、生成のほおも容赦なく叩き濡らしていく。まるで、生成の心を嘲笑うかのように。
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