断編章 降り落つる雫は君の袖濡らす
10. 可哀想な子
母が荒れるのはいつもの事だ。もうなにも思わない。それでも、今回はずいぶんとしつこい。
生成の母である茜は「桜の宮」の外れの小さな寝殿で暮らしている。先帝の妹という尊き身分にしては分不相応に小さな場所と少ない従者。
そこで茜は、黙って座する生成にわめき散らしている。それをどこか他人事のように生成は聞き流していた。
茜に呼ばれればなにを置いても来ることにしている。でなければ、茜の従者の者たちがあたられてしまうからだ。それは本意ではない。茜から向けられる全てのものは、自分が受け止めるべきもの。
「お前如きが帝妹を妻にするだと⁉︎ なんと恥知らずな‼︎」
「————……」
「聞いておるのか⁉︎」
「はい、母上」
もう何度この流れを繰り返しただろうか。
「その目はなんだ、この
「なにもございません。全て母上の仰る通りです」
「嘘をつくでない!」
鬼の形相をしているのだろうな、はっきり見えなくてありがたいことだ。そう自嘲気味に思いながら、ぼやけた視界で茜の手の動きを追う。
その腕らしきものが、横へ伸びた。そこにあった四角いものをその手がつかむ。
身構えた。
「————ッぐ」
硬い衝撃が左胸を貫き、息が詰まる。一瞬で頭の中が白くなり床に倒れた。なにかが近くに落ちる音。
(脇息か……)
茜が生成へ向けて脇息を投げつけたのだ。
衣擦れの音。
「こんな真っ白で気味の悪い男を‼︎ 神は選ばれたと言うのか⁉︎ 妾を捨て置いた神が‼︎」
「ぐは……っ、う……」
今度は腹に一撃が入り気が遠くなりかける。茜に踏みつけられたのだ。
二度三度と繰り返される執拗な攻撃に、身を丸めて耐える。
大丈夫だ、これくらいならいつもの通り。
「お前など生まれて来なければ良かったのじゃ! お前さえいなければ‼︎」
甲高い茜の声が響く。続け様に腹を蹴られるものの、所詮は女の力。身体を折り力を入れて受け流す。
(そうだ、私さえ生まれなければ)
そうすれば皆幸せだったのかもしれない。母も、そして依夜も。
自分は生まれてはいけない命だった。
(私も生まれることを望んだわけではない)
その事に、母に蹴られ続けている最中なのに湿った嗤い声が出た。ああ、そうだ。その思いを誰よりも理解しているのは自分なのだ。
神が生きろと言った。神が生成を
自分で選んだものなど何一つない。それでも、自分の気持ちなど関係ない。やるべきことをやるしかなかった。
(いや……)
一つだけ、自分の意思で選んだものがある。生まれつきの弱視は不利でしかなかったが、必死で食らいついた。
幼い女童のまっすぐな声が聞こえる。
(私はなにをしているのだ……)
依夜などまだましな方だ。感情に流されて行動を制御出来ていないのは自分の方だろう。
「はぁ……はぁ、はぁ……お前は、本当に、可哀相な子じゃ……」
茜の攻撃が止む。その場に膝をついた彼女の手のひらが、生成のほおを撫でた。
「このように醜く生まれ、誰からも愛されず」
「……はい」
「依夜姫はお前のことを憎んでいるそうじゃな?」
「ええ、そうです。この世で最も憎いのが私だと」
「そう。ああ、可哀相な子。お前を愛しているのはこの妾だけじゃの……」
「はい、母上。あなただけです」
静かにほおを撫でる母。こんなうらびれた場所で、誰からも忘れられたように老いていく母。
哀れだ。神子を生んでしまったばかりに、真実の隠蔽もできなかったのだ。ただ人であったなら、どこかへ捨て置きなかったことにできたものを。
ただ一夜の過ちで、どこの誰ともしれない男の子を
「生成。お前だけは妾を捨てぬな?」
「はい」
身を起こし、茜の手を握る。小さく、枯れ枝のような指を。
方法はどうあれ、茜は生成を憎んでいるのと同時に、愛してもいるのだろう。茜が全ての感情をぶつけられるのは自分だけだ。実の息子の、自分だけ。
「生成、お前を愛しているのは妾だけじゃ」
茜が生成の胸に飛び込み、その背に腕を回す。蹴られた痕が鈍く痛んだが、その痛みすら今は心地よい。これが愛だと知っているから。
母の背に腕を回す。なんと哀れな女。生成が生まれたせいで不幸せな人生を送る女だ。
「はい、わかっております、母上」
その白髪の混ざり始めた髪を撫でる。
「私は母上を捨てたりしません。ずっとお側におります……ずっと……。母上も、どうか、私だけを見てくださいますよう……」
囁いた息で、胸が鋭く痛んだ。
「どうか、私だけを愛してください……母上……」
この気味の悪い息子だけを、どうか。
* * *
「久しいですね、姉上」
生成が出て行ってからしばらく。顔を出したのは弟である
「季守。珍しいこともあるものじゃ」
「いえ、お祝いを申し上げるのがまだでしたからね」
茜の前に座した季守がにこやかにほほ笑む。
「生成と依夜姫のご婚姻、喜ばしく思います」
「……お前は、自分の息子を推薦していたと聞いたが?」
「生成は臣下ですし、依夜姫が嫌っておいででしたので」
そう言って自分の顎をさすった季守が、しかし……と続ける。
「私は勘違いしていたのかもしれません」
「勘違い?」
「ええ。意外とあの二人は上手くいくのではないかと思いましてなぁ」
目を細めた季守は、自分の息子が選ばれなかったことを気にしている様子はない。
「なんだと?」
生成と依夜は、お互いを嫌い合っているはずだ。上手くなどいくわけがない。
そんなことがあってはならないのだ。
「先日大きな魔が現れた時、依夜姫は体調がよろしくなかったようでしてな。しかし、生成がずっと支え助けていたそうですよ」
「生成が……?」
胸の中に言いようのない影が広がっていく。
生成は、あの気味の悪い可哀相な子は、母以外の誰も愛さないはずだ。そして誰にも愛されない。
あんな生まれながらに卑しい子を愛してやれるのは自分だけなのに。
「本心はどうあれ、生成が献身できるなら依夜姫のお心もじき解けられるのではと思いましてね。神官としても常にご一緒に行動されているわけですし」
「そうか……」
いやそれでもあり得ない。生成が、まさか。
「それに、もしお二人に神子がお生まれになれば、姉上にも
「それは、良いことじゃ」
こんな寂れたところで、訪ねて来る者も文を交わす相手もおらず朽ちていくだけなど、この先耐えられそうにない。
神子を生んだ恩赦で茜は身分を奪われなかった。生成に神子が生まれれば……。
「依夜姫も、なんだかんだ信頼はあるでしょうからね」
それならば自分の息子でなく、神子同士で婚姻するのが良いだろうと思い返しました。季守はそう言って深く頷く。
「姉上も、お二人の今後を楽しみにされるとよろしかろう。まこと、この度はおめでとうございました」
深々と頭を下げ、それではこれでと退室していく。
本当に、祝い事を言いに来ただけなのだろう。
生成は婚姻の儀を行い、妻を娶る。生成の嫌う依夜姫を。
愛などなくても子は成せる。茜が、そうだったように。
神子が生まれれば茜も。
口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
「ああ、生成。可哀相な子。逃がしませんよ……」
* * *
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