8.3 アールシュ・アミン

 アールシュ・アミンはニューヨーク州ハドソンで生まれた。ウェストチェスターからオールバニーにかけて広がるハドソン川渓谷の自然を気に入り、祖父が南アジアの大国から移住し、そして定住した。アールシュはここで暮らすアミン家の3世にあたる。アールシュの祖父はソフトウェアエンジニアとしてキャリアを積み、自身の会社を立ち上げ、バイアウトして資産を築いた。アールシュの父親も同じ道を歩んでいる。そして、アールシュもそれが当たり前だと考えていた。アールシュもいつか自分の事業を持ちたいと考えていた。


 アールシュが18歳の時にプロセッサが一般販売された。祖父も両親も、もちろんアールシュも初期ロットを購入した。周囲の友人もその家族も皆その年か翌年の第2ロットでプロセッサを導入していた。シンタロウに初めて会った時、周りで誰もプロセッサを接種した人間がいないという彼の話を聞き、別の国の話を聞いているようだと感じた。


 アールシュは何不自由ない暮らしを送り、東海岸の伝統ある名門大学に進んだ。そこで、エヴァンズ教授が立ち上げたエミュレータ計画に出会った。エミュレータはアールシュが常々感じていた現実社会への不満を解消することが出来るポテンシャルを持つっていた。それを知ってアールシュは気分が高揚し、人生が開けるような気がした。それに比べて現実世界は危険に満ち溢れている。どんなことで自分が命を失ってしまうかわからない。それは自分の大切な人も同じだ。エミュレータは制御をかければ不慮の死を防ぐことが出来る。当然、貧困や不衛生で死ぬことも防げる。それどころか理論上は死んでしまった人間でさえ生き返らせることが可能だ。しかし、矛盾なく整合性を取りながらそれらを処理するためにはまだ越えなければならない課題がいくつもあった。


 アールシュが大学院の間にエミュレータのプロトタイプの基礎理論を完成させ、エヴァンズ教授に実装を託された。それからオプシロン社に就職し5年の内に正式稼働までこぎつけた。今はUCL所属ということになっているが、それはエミュレータ事業がいずれ公共セクターの事業になることを予期したものだった。その時のためにすでにエヴァンズ教授が手をまわしている。


 アールシュはティア2から持ち帰った文献を使って、メサDCに新たにインターコネクタのプロトタイプを構築していた。正確に言えば、そうしようと考えていたアールシュの代わりにンジィアイが行動を制御していた。もうこの3週間、ほとんど全てアールシュの代わりにンジィアイが行動のコントロールをしている。その間、アールシュの意識はンジィアイの自我の端でずっと混濁したままだった。


 このプロトタイプのインターコネクタをウィルコックスのディファクトの代わりに据えるつもりだった。アールシュはこのインターコネクタをティア3住居リージョンと接続できるようにしようと考えていた。インターコネクタはティア2現実のUCL研究所内で見たエクスチェンジと物理構造が同じようなものだ。人が一人通過できる程度の広さで、長さが10フィートのトンネルのようなものだ。トンネル内部には電磁波を放射している。エネルギー量が非常に高く、波長の短い電磁波を重ねることでディフェクトを模倣する。アールシュが手配した大規模な装置は、今の技術で可能な極限まで短い波長の電磁波を発生させることが出来る。電磁波は放射線となり、直接浴びれば一瞬で致死量に達するレベルだった。


「アールシュ、久しぶりね。調子はどう?なんか最近よく情報チャネルに出てるよね?ちょっと有名人に会いたくなって、エヴァンズからここにいることを聞いたの。で、どうしてるかなと思って来てみたんだ。」


 誰かが、インターコネクタのプロトタイプの試作室を訪ねてきている。アールシュはソフィアを見つけるとただ頷くだけで何も答えない。ンジィアイはアールシュの蓄積データをシークしてこれがソフィアだと知った。ソフィアのバイタルをスキャンしたインジケータが疑いを示す。こいつはアールシュの何かを疑っている。アールシュ自体が生成したンジィアイはアールシュを介してプロセッサもPAも利用できる。ンジィアイの持つ思考レベルではなく、アールシュの思考レベルで考えることができる。


 ソフィアは誰かがアールシュを介してソフィアのプロセッサに干渉しようとしているのが分かった。これまでティア3検証リージョンでは見たことがない手法を使っているのでアールシュではない。ソフィアの外部ブロッカーがそれを検知してアンチクラック用のコードが動作している。多重実行されているクラックパターンは、ソフィアの外部ブロッカーが想定しているものよりもずっと多重度が高い。解除されるのは時間の問題だった。


「昨日スカイラーが病院で自殺しようとしたの。私とライアンの目を盗んで、病院に出入りしていた売人崩れから買ったメタンフェタミンでハイになっていたみたい。信じられる?あのスカイラーが売人から薬を買ってたのよ?それで、処方されていた睡眠剤から何から持ってた薬を突発的に全部飲んだのよ。スカイラーが死にたいって喚き散らして大変だったんだから。でもなんとか無事だったのよ。見つけるのが早かったからね。今はライアンがずっと付き添ってくれている。胃の洗浄する時にスカイラーを抱き上げたんだけどスカイラーってあんなに小さくて軽かったっけ?筋肉も全然なくなっちゃってるの。ずっとトレーニングしてないんだって。」


 それまで無理に笑顔を作っていたソフィアがその笑顔を消してアールシュを見つめる。


「ねぇ、アールシュ。メシミニアにデータ流出させたのって、あんた?」


 アールシュはソフィアと目を合わせたまま動かない。ソフィアは息をのむ。大きく3つ呼吸する間をおいて、アールシュはソフィアの目を見たまま、ようやく頷いた。そして、ゆっくりと自分の左の鎖骨を撫でる。ソフィアはウィルコックスのディフェクトを調査した際、アールシュとポーカーをしたことを思い出した。「アールシュ。あんた、嘘つくとき左の鎖骨を撫でる癖あるよ?知らなかった?だから、レイズするときの芝居じみたあんたのブラフ、全く意味ねーから。」


 ソフィアはそれを見て、シンタロウから聞いた通りの状況だと確信した。今日の朝、シンタロウがサクラからメッセージを受け取ったという。サクラはあれから3か月も経つのに戻ってきていない。シンタロウが言うにはもうサクラは戻ってこないという。私にしてもサクラにしても戻ってこないってどういうつもりなのだろうか。


 そして、ソフィアはシンタロウからアールシュが「真実の現実」でストゥルという別種の人類に寄生されたことを聞いた。エヴァンズからはアールシュが「あの日」の事実を公表することを主張していたことも聞いている。だけどアールシュがエヴァンズの意見を無視するとは思えない。それにアールシュは小心者だ。エヴァンズが言った通りのことが起こる可能性があるのにそれを知りながらメシミニアにあのデータを渡すはずがなかった。本物のアールシュなら。


 案の定リークされたデータを使ってメシミニアが煽ったせいで自殺者や入院する人々で世間がとんでもない騒ぎになっている。それに情報チャネルであんな調子のいいことばかりを言うアールシュは別人のように見えた。シンタロウが言うようにアールシュの理性のタガを外しているのはストゥルだろう。そして、アールシュは最近、露骨にシンタロウを嫌っている。シンタロウよりも私の方が警戒されないはずだ。


 アールシュの反応を見て確信したソフィアは目を大きく見開くようなジェスチャをし、揺れるように頷いた。それから口をつぐみ、乾いた唇を小さく舐める。そうして覚悟を決めたように喋りだす。


「アールシュ。これで、貸し3つだからね。ポーカーの負け分の支払いがまだだし、私のPAを許可なく使ったのも忘れてない。今回の件も含めてちゃんと貸しを返してよね。」


 そして、ソフィアが続ける。


「ところで、エヴァンズに聞いたんだけど、あんたが検証してるっていうインターコネクタはどこ?ちょっと見せてくれない?」


 アールシュがソフィアの後方にある、トンネルを指さす。電磁波を発生させるための動力装置がいくつも連なるそれをみてソフィアは怖くなった。トンネルの周囲は水が張られた立方体のキューブで埋められている。


「へー。アールシュって放射線技師のライセンス持ってんだ。新しいMRIでも作ってるのかな?それとも癌の治療用の装置だったりして?どうして水槽で囲ってあんの?電磁波がもれちゃうのかな?マジで怖いんだけど。」


 黙っているアールシュ。


「ねぇ。ちょっとってば!ウィルコックスの地下で見たみたやつに比べて禍々しさがすっごいじゃん。まじでこれに入るわけ?」


 ソフィアはアールシュを見つめる。


「今日はやけに静かね。まぁいいわ。ちょっとこれ動かしてみていい?」


 アールシュの反応をみて、ソフィアは考えた。そして恐らく、ストゥルは意味を理解していないと判断し、シンタロウとサクラと3人で事前に立てた計画を実行することを決めた。サクラの情報だと宿主であるアールシュに怒りの感情を持ったり、彼を責めたりしたらストゥルは私にターゲットを変えるはずだ。緊急性が高ければ分離したコードではなくて本体コードで私のプロセッサに侵入してくるはずだ。サクラの奴、間違った情報だったらただじゃおかないから。


 もう外部ブロッカーが持ちそうにない。ソフィアはトンネルに入り、アールシュに手招きをする。そして、近づいてきたアールシュのネクタイを掴みアールシュの顔面を殴った。人を殴るなんてハイスクールの時以来だった。皮膚を叩く嫌な音が小さく響く。同時に生暖かく、そしてアールシュの硬い頬骨の感覚がソフィアのこぶしに痛みとして伝わる。ソフィアの外部ブロッカーが破られて、次にOS側のブロッカーが作動する。OS側のブロッカーはものの数秒で破られる。アールシュからの干渉が一瞬なくなり、新しいコードがソフィアのプロセッサに侵入する。ストゥルの実行コードだろう。ソフィアはトンネルの外側にある扉のボタンを押して、トンネルの奥に飛び込む。電磁波を遮断する鉛と液体入りの分厚い扉がスライドしてトンネル内が外部と遮断される。低い大きな動力音を伴う電磁波が放射され耳鳴りがする。


「どう?気分は?あんたがアールシュに侵入していたストゥルだろ?アールシュの思考から外れたらもう言葉が理解できないか?アールシュみたいに簡単にコントロール取れると思うなよ。」


 ソフィアが声を出して話しかける。音声が聞こえ、ソフィアのPAが翻訳を始める。


「ンジィアイは帰りたい。痛いのは嫌。ここはもうつまらない。」


「ンジィアイってお前の名前か?痛いってのはアールシュの感覚でお前のじゃないだろ?良くわかってないなお前、子供か?」


「ンジィアイは私。私は12歳でもう成人。あなたはソフィア。蓄積データにいるのはスカイラー。スカイラーはライアンが好き。」


「馬鹿なのかお前?ガキが生意気に勝手に見るなよ。それにお前はもう帰れない。お前がアールシュにいつまでも寄生なんかしてるから、お前の世界とは違う世界まできちゃったんだよ。意味を知りたかったら私の蓄積データをよく見てみな。子供は子供らしく、子供同士でその辺で遊んでりゃよかったのに。」


「子供は嫌い。ミジェイもウィトもみんなつまんないから嫌い。私は子供じゃない。お父さんのところに一緒についていく。ソフィアも同じ。お父さんのところに逃げた。私と同じ。」


「この野郎、また勝手に見やがったな。お前に見ろっていたのはこの世界のことだ。勝手に人の記憶をみるなよ。」


 ソフィアは自分が子供の頃を思いだした。私は子供じゃない。その言葉は私の口癖だった。本当は逆だったのか。同世代の子供たちと馴染めず、だから大人の振りをしていた。そして、父の経営するレストランに通った。そこで顧客たちがよくしてくれた。だから寂しさを感じずに済んだ。本当は子供たちの仲間に入れてほしかったのだろうか。本当は寂しかったのだろうか。


「ンジィアイ、みんなのところ帰りたい。ここにお父さんもお母さんもいない。ミジェイもウィトもキリバもみんないない。」


 ンジィアイの感情が乱れる。ンジィアイのコードがソフィアのプロセッサに干渉する。アールシュの時とは違い、ソフィアを介してではなく、PAにンジィアイ自身の思考を直接繋ごうとしている。


「ンジィアイ、待て、マジやめろ。スプリットブレインはPAの禁則コードだって。アールシュの持ってるデータ見ただろ。二人ともマジで自我がなくなるぞ。」


 ンジィアイが帰るという意思を示す叫び声をあげる。ソフィアの目と鼻と唇や歯茎から血が垂れている。体中の血管がうっ血して皮膚が紫色に変色し斑点のように広がっている。斑点のいたるところから血液や液体がしみだしている。アールシュのやつ、馬鹿なのか。こんなに危険なものを一般の施設で作っているなんて。自我よりも身体の方が持ちそうにない。


 シンタロウがソフィアのPAにコネクションを張り、話しかけてくる。サクラがインターコネクタにダミーのリージョンをアタッチしたという。出口側の実体はないが、十分だった。マテリアルの投射が切れる。ソフィアはマテリアル上のフィジカルを失うことで身体的な死の体感を逃れた。演算装置だけの存在となったこの状態であれば、ストゥルはどこにも逃げることが出来ない。


 ソフィアがシンタロウに話す。サクラでもシンタロウでもどっちでもいい、私の演算装置の実体から早くンジィアイのコードを取り出せよ。放射線はどうにかなったけど、もうすでにンジィアイがPAに自分の自我を繋いでいたぞ。なんだか知らないけど笑いが止まらないし、もう私の蓄積データと自我が融解する兆候かもしれない。


 ソフィアはアタッチされて機能し始めたインターコネクタの中でフィジカルを失い、演算装置だけで処理される存在になった。だがその直前に、ンジィアイがソフィアのPAに自分を繋いだことで二人の自我は拠り所をなくしていた。ソフィアとンジィアイは自我の断片とその蓄積データだけの存在になって、演算装置の実体は意図を持たない二人の断片コードを処理していた。ソフィアは自我を失う瞬間に笑いが止まらなくなり、最後に笑い過ぎて死んでしまうと思ったまま自我が消滅した。


 次に気が付くと、インターコネクタのトンネルの外で倒れているアールシュを眺めていた。コンテキストの切り替わりを感じて不快だった。身体を触ると鼓動ではなくモーターがいくつ駆動する小さな振動を感じる。主観ビューから不快を示す信号が届きスタックに入る。閉所恐怖症ではないがさすがにこの閉塞感はじっとしていられない。酸素を取り入れようと呼吸するが肺を意識できない。


 シンタロウがPAにコネクションを張り、話しかけてくる。アールシュが持っていた検証用のヴィノにソフィアの蓄積データをダンプして、ソフィアが死ぬ直前までのデータをマージしたという。


 結局、私は死んだのかよ。シンタロウが言うには外側にいるサクラが私をリストアしてこの瞬間までの蓄積データをロールフォワードすれば私は生き返ることが出来るという。ソフィアは少し考えて、いいやこのままでという。そして、ストゥルのンジィアイはどうなったか聞いた。彼女の自我もソフィアと同じだという。


「そうね。こうしよう。ンジィアイをこのまま生かす。ンジィアイにもヴィノの身体を用意して、彼女が死ぬ直前までのデータを入れて。あのガキ、私を殺したんだから、ただじゃおかないわ。絶対に許さない。きっちり教育して、一端のエンジニアに育てて、私の部下にして一生こき使ってやる。それで、いつか「真実の現実」にいる本体に取り込ませて改心させてやるわ。そのくらいしないとマジで気が済まないわ。」


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