8.2 メシミニア

 アールシュは、これまでにティア3検証リージョンの外部から得た情報などを一般に公開すべきだとエヴァンズ教授に話を切り出した。ところが、エヴァンズ教授は公表に慎重な姿勢を示した。スカイラーの様子を見ていたエヴァンズ教授は、その事実を受け入れられない人が多くいるのではないかと考えていたからだ。


 エヴァンズ教授の同意が得られず、公表に踏み切れずにいたアールシュは焦っていた。もうすでにシンタロウが戻ってきているという。今はネブラスカの実家に戻っているが、すぐにエヴァンズ教授の下でエミュレータ研究者として活動を始めるだろう。シンタロウはすでにアールシュと同等かそれ以上にエミュレーティングテクノロジーに精通している。それにサクラが戻れば、もしかしたら今後は自分ではなく、彼らがエミュレータを推進する役割を担うのではないかと危惧していたのだ。


 ある日、アールシュは旧ネットの「セブンス」というカルト情報チャネルで「鐘の音」と「神の使いの言葉」が仮想現実論に基づく現象であり、この世界がエミュレータ内で展開されている仮想空間であることを示していると主張する新興宗教団体の記事を見つけた。少し過激で身勝手な空想が過ぎるところがあるが、主張の本論自体はそれほど間違っていなかった。もしも、この記事に信憑性が加わればもう少し、世間に広まるはずだ。それはこれまでの事実の一般公開を望むアールシュにとって追い風になる世論になると感じた。アールシュの頭はシンタロウがキャプチャしていた音声やデコードしたデータがよぎる。しかし、もしそんなことをして、エヴァンズ教授の心配していることが現実に起きてしまったら取り返しがつかないことになる。アールシュにはノースやサリリサのようなに罪を背負う覚悟が持てなかった。


 ンジィアイはなぜ、アールシュが自分自身の最も大切な感情を満たすための行動を抑制しているか不思議だと感じていた。もしかしたら感情を出すことが恥ずかしいのだろうかと思い、理性を司る前頭葉に干渉することで抑制を緩めてあげた。それは悪意ではなくンジィアイの無邪気な優しさを元にした行動だった。


 アールシュは悩んだ末に「セブンス」の管理者宛に「鐘の音」や「神の使いの言葉」がパルス型実行コードであることを立証するために解析した根拠データやキャプチャしていた音声、「神の使いの言葉」のテキストデータ、デコード内容を匿名でリークした。


 それから数日で、旧ネットを発信源とした「神の使いの言葉」とその意訳は爆発的に広まった。メシミニアを名乗るその新興宗教団体は発信源として瞬く間に有名になっていった。連日情報チャネルで特集が組まれ、「鐘の音」や「神の使いの言葉」がパルス型のコードであることや「神の使いの言葉」のストリーミングデータとその意訳が何度も流された。意訳では「暁の器」がメシミニアの教祖を指し、「主の羽の一片」が信者を指しているとされていた。


 そして、最初の事件はその特集が初めて組まれた深夜に発生した。アトランタのハイスクールに通う16歳の少女が自宅で拳銃自殺を図った。少女が自殺した当日、少女は両親とともに情報チャネルにアクセスしメシミニアの特集をVRSで見ていたという。少女は非常にショックを受けていたといい、その夜は、両親の寝室で娘と共に3人で就寝したという。


 夜中に発砲音で目を覚ました父親が、少女の自室で頭から血を流す娘を発見して911に通報した。少女が使った拳銃は護身用に自宅の保管庫にあったもので、他に遺書も見つかっていた。遺書には少女が、深夜に旧ネットで情報を得て、エミュレータから出る方法を試してみなければならない、そしてそこに本当の自分がいるはずだ、などと書かれていたという。私立のハイスクールに通う少女はラクロス部に通い、活発で優秀な成績だった。また両親と仲が良く、特別変わった思想もなかったという。


 その事件を皮切りに、全国でエミュレータの外側に出ることを目的とした自殺が多発した。また心労や無気力で起き上がることも食事をとることもできない症状を発症するものが増加した。中には食事はおろか水分をとることも出来ずに栄養失調や脱水症状で命を落とすものもいた。


 事件が起きる度に、不安を抱く必要はないと説いてまわるメシミニアの映像が情報チャネルで取り上げられた。そして、メシミニアは、世界の理を知ればこれまでよりも豊かに暮らすことができると説く。光沢があるゆったりとした純白の祭服を着て、各自が紫や赤や緑の帯状のストラをまとった集団が祈りを捧げる姿の映像が流れる。その映像の最後に彼らの教祖がアップになり、「我々にまずコンタクトを取ってほしい。我々はあなたを救うことが出来る」と訴え、終わるのだった。このタイミングで流れたメシミニアのオカルトめいた印象深いメッセージ映像が人々の心に響いた。メシミニアの話を聞きこうとオレゴンに拠点を置く、メシミニアの元に多くの人が足を運んだ。


 メシミニアの教祖であるハンター・ヒックスは小心者の普通の男だった。彼が大学生の頃に始めた聖書の朗読会がメシミニアの元になっている。オレゴンの彼の自宅近くにあるパブリックスペースで毎週開かれる聖書の朗読会では、年を追うごとにハンター独自の解釈を僅かずつ付け加えていった。ハンター自身、仮想現実論者であり、ヴィシュヌ計画の熱烈な支持者でもあった。そういったハンターの思想を付け加えて出来たメシミニアは、30年を超えた今では40人を超えるコミュニティになっていた。


 ハンター・ヒックスは、自身が運営する「セブンス」の管理者宛に届いた「あの日」の意訳を含むメッセージを受け取り、その内容を見て何度も背筋が震え、その度に神に祈りをささげた。いよいよ自分に天命が下ったのだと確信した。


 メシミニアのコミュニティにこの内容を自分の言葉として伝えると全員が息をのんでハンターと同じように震え、神に祈るのを見た。ハンターは直ちに「セブンス」を媒介に、旧ネットを中心にこの内容を広めた。ウィーブリンクを使わなかったのは自分たちが他のパブリックな情報チャネルに簡単に評価されたくないと考えたからだった。


 アールシュは世間の反応を見て、すぐに怖くなった。自殺騒ぎはとどまるどころか全国に広がり、自殺者数は2か月で4万人を超えている。無気力症状はエミュレータ拒絶症として世界中に広がっていた。症状が急速に悪化したスカイラーはとうとう入院してしまったという。先日再会したハイスクルールの同級生のライアンとソフィアが交代で彼女の世話をしている。しかし、アールシュの恐怖心や罪の意識はンジィアイが操作してすぐに消し去ってしまった。感情の操作どころか、徐々にアールシュの行動をンジィアイが制御することが増えていった。


 アールシュとエヴァンズ教授は連日エミュレータについてのインタビューを求められた。数週間もするとアールシュはUCLで最も顔の知れた有名人になっていた。アールシュはエミュレータの有用性や移住の可能性、その利便性について丁寧に、そしてエヴァンズ教授が心配するくらい大げさに誇張するように解説し、エミュレータは決して恐ろしいものではないと繰り返した。ンジィアイが制御したアールシュがエミュレータや仮想現実論を世間に説くことで、アールシュ本人としても情報をリークした罪悪感が次第に薄れていった。


ンジィアイは最初、アールシュ自身が望んだことの実現を手伝ってあげているつもりだった。そして、今ではンジィアイは人々の前で話をするのが楽しくなり、アールシュのほとんどすべての行動を制御するようになっていった。そして、アールシュはその行動を追体験させられるだけの存在となっていた。

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