7.4 くすぶる心

「アールシュ、君がエミュレータに「ヴィシュヌ」と名付けたんだろう?元はと言えばエミュレータは私たちが作ったんだ。残っている「4人」ともそれぞれエミュレータの開発に関りが深い。そして私は、私が期待する地球史を「創造」しようと考えている。これが偶然だと思うか?」


 アールシュはノースの言葉の意味を察した。


「あなたたちがブラフマだとでも?なぜわざわざ私のルーツに合わせるのですか?」


 ヴィシュヌは「世界を維持する神」であり、単一の神聖な存在が持つ「3つの様相」の内の1つだった。ブラフマも同じく、その1つだ。そして、ブラフマは「創造神」のことであり、ブラフマはチャトゥラーナナ(4つの顔を持つ者)だ。4つの顔は各方角を指し、あの男は自らを「ノース」と名乗っている。


「アールシュ、君に話したことが事実だ。人類の中にはまれに人智を超えた存在が現れる。世界の外側を知る存在だ。そして、その存在が知ってしまった外側の世界について、周囲に説いて聞かせた。それを君たちがどう解釈しているかに過ぎない。私が合わせているのではない。君はサリリサの世界にあるENAUのリージョンで何が起こっていたのかを調べて知っているんだろ?彼が「トリムルティ」の最後の柱だとしたらどうだ。私の言っていることの意味も、君が何をすべきかも、わかるのではないか?」


 アールシュはENAUのことを知っていた。「真実の現実」に来る前にUCL研究所でENAUのエミュレータで起きた「あの日」以降の記録について文献を読んでいたからだ。「あの日」を引き起こしたのはアールシュと同じ南アジアの大国の移住3世のエミュレータ研究者だ。彼が「あの日」以降、ジャーナル・レコードの解析を行い、この世界がエミュレータの中にあることを世間に公表し、エミュレータの有用性を説き、エミュレータへの移住を先導した。そして、そこにはイレギュラーであるシンタロウやサクラは存在しなかった。彼は私だ。ヴィシュヌと命名したのは私だ。私には彼と同じことをしなければならないという使命がある。


 そしてノースの言う、「トリムルティ」は神聖な存在の「3つの様相」のことだ。3つの様相とは、つまりヴィシュヌ、ブラフマ、そして「シヴァ」のことだ。最後の柱とはシヴァを指し、シヴァは「破壊と再生」を司る。「あの日」がこれまで現実だと思っていた私たちの世界の価値観を破壊した。そして私たちは、エミュレータへ移住するテクノロジーを得て、その有用性を体感することで、破壊されてしまった私たちの世界の価値観を再生しなければならない。


 「アールシュ。君にはまだやることがあるのだろう?そして君にはその資格がある。ちょうどここへ来るときに君を後押しする味方も出来たようだしな。君たちがイレギュラーなのは間違いないということだろう。」


 アールシュにはもう、ノースの言葉は聞こえていなかった。アールシュは、自分自身がこれまでエミュレータに対して思い描いてきたことに、一つも間違えはなかったのだと確信した。早く戻ってエミュレータ開発を続けなければならない。そして「あの日」の意味を世間に公表し、同時にエミュレータの有用性を説き、未来を先導するのは自分しかいないのだと確信した。


 ノースは、アールシュを送るようにヒューに目くばせをする。ヒューはノースの意図を汲みとり、階段の下で頭を下げたまま、アールシュが向かってくるのを待っている。


 アールシュはエクスチェンジに戻り、ティア2現実で起き上がる。小部屋にはまだサリリサとシンタロウ、サクラが寝ていた。シンタロウとサクラを見た時、一瞬視界が途切れたような気がしてアールシュは意識を確かめるように首を振り、目を抑えた。初めてエクスチェンジを逆側に移動したからだろうか。扉を出るとティア3検証リージョンの地下に掘ったディフェクトの前にいた。ヒューが説明してくれた通り、すでに一度通過した同じ階層であるティア3住居リージョンはバイパスすることができたようだ。


 アールシュはディフェクトのフェンスを内側から開ける。物音に気が付いて、コンテナの仮設事務所から出てきた、ジェフの部下がアールシュを見て驚きながら出迎えてくれた。その後、ウィルコックスのDC建設現場にいたジェフと再会し、彼がアールシュをメサの研究室まで送ってくれた。


 エヴァンズ教授、そしてグエンとチューは日常の業務に戻っていた。そして、スカイラーはとうとう休職してしまったという。スカイラーは「あの日」以来、精神的な不調を訴えていたが、ティア2から戻ってからほどなくして寝込むようになってしまったようだった。


 そして、ソフィアはティア3住居リージョンのUCL-1から戻っていなかった。ノア・バーンズによると、ソフィアはこちらに戻ってくる前にティア3住居リージョンのバージニアにあるコールマン家を訪問し、そこで何かあったのだという。ソフィアはそこで暮らすと言い出して、サリリサに直談判した。サリリサはソフィアに一つの条件を出した。ソフィアがそれに合意すると、ソフィアがティア2で暮らすことをサリリサはあっさり許可したという。


 その条件とは、ノア・バーンズと同じようにティア2とティア3のリージョン間の管理者を務めるというものだ。インターコネクタやエクスチェンジの橋渡しを行う者は「コーディネータ」と呼ばれている。ソフィアはそのコーディネータの役割を引き受けたということだ。 


 そして、こちらのリージョンにもソフィアは存在する。それは、地下のディフェクトを通った時の記憶までを持つソフィアだった。ティア3検証リージョンで目覚めたソフィアはなぜ、自分がティア2住居リージョンに残ったのか全く知らない。しかし、「私自身が自分で決めたことなんだから、まぁ許してやるか。」と言い、ノア・バーンズにティア2住居リージョンのソフィアに会ったら、残った理由を絶対に教えに来いと伝えておいてと伝言していた。実感のない自分の事よりもスカイラーのことが心配なようで彼女に付きっきりで看病しているのだという。


 そして、アールシュにはやることが山積みだった。UCL-1とティア2現実でエミュレータやエクスチェンジに関する文献をローカルデータに大量に取り込んでいた。それらを実現するために現在の技術で出来ることから早速取り掛かることに決めた。


 それと、アールシュにとって重要な使命がもう一つあった。それはティア2や「真実の現実」で見聞きしてきたことを世間に公表することだ。すぐにでもエヴァンズ教授に打診する必要がある。UCLのあの及び腰の広報も改めさせなければならない。何年も止まったままだった仮想現実論について、新しい事実と価値観を示さなければならなかった。


 アールシュは戻ってきてからずっと焦っている。イレギュラーであるシンタロウやサクラが戻ってくる前にエミュレータの今後について自分が主導権を握らなければならなかったからだ。あの二人よりも自分の方がずっと適任だ、アールシュはそう自分に言い聞かせていた。


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