6.2 サリリサ・エリミテ

 サリリサ・エリミテが「鐘の音」と「神の使いの言葉」を聞いたのは、成人までの教育期間を終えたばかりの頃だった。ティア2現実では一般階級の子供は全て企業体が運営する教育機関で育てられる。衣食住は企業体から提供され、地域差や経済的、文化的な差が子供の育成に影響を及ぼさないように管理されている。


 両親や親族の価値基準が子供本人の「パースペクティブ」として内在化し、自我を形成するのを避けるため、子供と肉親が生活を共にすることが許可されなかった。ティア2現実では両親は生後一日だけわが子と過ごすことができる。それが幼少期の子供と両親の記憶の全てだった。その後、子供が両親や他の肉親に会うことができるようになるのは、個人のパースペクティブが整理されたと教育機関に判定されてからだった。判定後は自身の行うすべての決定権を企業体と両親から返還される。それ以降、個人の意思はルールに背かない限り、最大限尊重されるようになる。つまりそれは成人として認められたことを意味する。それまでにかかる期間は個人により異なるが、生まれてからおおよそ16年が経過する頃が一つの目安だった。


 それまで子供たちは各自が持つ遺伝子と現在の能力によって選別され、それに見合う学習プログラムを受けることになる。選別は頻繁に行われ、その都度学習プログラムは修正された。システムのルールにより両親は子供を企業体へ託さなければならず、一般階級がこれに背くことはできない。このシステムにより、一般階級が経済的な成功だけでは特権階級に入り込むことは困難になった。


 このシステムの運用が開始されたことによって経済的に裕福な一般階級は、その潤沢な私財を使って自分の子供にだけ特別な教育を受けさせることが出来なくなった。そして、両親と子供は離れて暮らすことにより、家訓を継承させることもできなくなった。システムが運用される以前は、両親や祖父母と子供が生活を共にすることで、何気ない会話や両親が繰り返す言動から家系が代々受け継いできた価値基準を理解し、それを子供自身の価値基準として取り込むことが出来た。しかしこのシステム下ではそれも叶わなかった。


 それとは逆に、子供たちは貧しさで常に何かに気を取られることからも解放された。経済力がなければ常に何かに気を取られ、時間を費やされてしまう。それこそ次の食事の心配をする必要もなければ、誰かが自分の知らない何かを所有していることに興味を示したり、自分もそれが欲しいのだと錯覚したりする必要もない。そして、錯覚した物欲を満たすために自分自身の学習時間を削り、労働に充てるという効率の悪い換金行為の必要もなくなった。企業体は子供たちに必要なもの全て、各自に差をつけることなく提供した。


 このシステムにより、経済力で能力をアクセラレーションすることは上位階級にだけ許された特権となった。一般階級にそれをさせるのは無意味な偏りを生みだすだけだ。それは行政管理上の害悪でしかない。上位階級の人間はそう考え、このシステムを導入した。システムは効果的に機能しており、幼少期から個別の家系ごとに価値基準を形成する時代は数世紀も前に終わっており、今ではそれは文献上の過去の風習でしかなくなっていた。


 ティア3検証リージョンやティア3住居リージョンはオリジナルが共通の地球史からの分岐であり、17世紀まで全く同じ世界だ。しかし、ティア2はそれとは別のオリジナルを持つ地球史だった。ティア2現実はティア3住居リージョンを生み出す時、並列実行させたエミュレータから自分たちの地球史にできるだけ近い世界を選定した。それでも人間が持つ感覚では文化的に大きな隔たりがあると感じる。特に、ティア3住居リージョンでは経済力が個人の能力として機能していることが、人間の能力の形成に悪影響を及ぼしていた。少なくともティア2の人々からはそう見えた。


 ティア3では遺伝子の優劣とその発現状況に見合わない教育やトレーニングを行っている。例えば、ある分野の才能がまるでない人間がその分野に特化され、洗練された特別な教育を受けている。そして、過剰なレクチャーにより、本来トレーニングで習得するはずのメタ認知などの能力が獲得されていないなど、理論的に説明がつかない非効率で効果の薄い育成が散見された。そのためティア2現実から見れば、ティア3の人間は総じて能力が低かった。無知さや悪気のないその無邪気さは時折、ティア3ならではの興味深い文化や芸術的な感情の機微を表現することもあったが、往々にしてティア2の人間を苛立たせる原因となっていた。


 サリリサがシステムによる教育期間を終え、成人として認められたすぐの頃に「あの日」のプログラムが発動した。そして、それから3年後にサリリサの両親と兄が自殺した。サリリサが両親と兄との生活になじみ、家族の温かさを実感し始めた矢先だった。


 原因は旧ネットに出回った「神の使いの言葉」の意訳と、人々の不安を煽る社会情勢にあった。「あの日」以来、この世界が仮想世界であることが徐々に解明され始めていった。この仮想世界で生きる意味を見出せずに不安と無気力さに飲み込まれ、うつ症状を発症するものが現れ始めた。また、ある時から死が現実に帰還する方法だとする噂が流れようになった。そして、それらが蔓延し始めると時間の経過とともに、自ら命を絶つものが増加し、情報チャネルを中心にその現象が広く報道された。人々はその現象を目の当たりにし、さらに不安を募らせ、大きな社会問題に発展していった。


 当初「神の使いの言葉」の意訳を広めたのは、「メシミニア」と呼ばれる小さな新興宗教団体だった。メシミニアは自身が持つ旧ネット上の人気カルト情報チャネル「セブンス」を利用して大々的に民衆の不安を煽った。そしてその後、メシミニアのみがこの仮想化世界と人類を再定義することができ、メシミニアのみが人類に生きる希望を与える力があると喧伝して回った。サリリサから見ればメシミニアなどメジャーな宗教団体の経典の別解だけしかよって立つとところのない、取るに足らない虚構の存在でしかなかった。ただ、メシミニアが発信した意訳が示す、感傷的なメッセージが普及したタイミングだけだった。この不安のさなか、旧ネットを介してたまたま人々の心に入り込んで、この不安の受け皿として機能し始めてしまっただけだ。そうでなければメシミニアのようなただの虚構なカルト集団に両親や兄が耳を傾けるはずがなかった。


 エリミテ家は裕福な家庭であったため、メシミニアへ傾倒した両親は、持てる限りの財産を献金に投じていた。両親と兄が自殺するころにはエリミテ家には負債しか残っていなかった。肉親を全員失ったサリリサは、エリミテ家が抱える負債の相続を拒否することもできたが、そうしなかった。負債の相続と同時に19歳のサリリサはある決意を胸に刻んだ。


 19歳のサリリサには経済力が必要だった。その高い知能を生かして、すでに企業体でバイオロイドやアンドロイドの開発者としてキャリアを積み始めていたサリリサは、バイオロイド開発の豊富な知識を持っていたが、そのキャリアで多額の報酬を得るだけの実績と呼べる成果は持っていなかった。そこでサリリサは性産業用バイオロイドを開発する、まだそれほど有名ではない新興のバイオテクノロジー企業に目をつけ研究者として入社した。サリリサは上位クラスの生活が保障されている行政企業体をやめることに反対する周囲の声を全て無視した。その程度の報酬では、自身が決意した目的を達成することが到底できないことを知っていたからだ。


 急伸する業界の中心にいた新興のバイオテクノロジー企業で、サリリサはいくつかの商業的に有用な特許を取得した。そうして得た利益で両親の負債を支払い、残りの利益を使って当時UCLと名を変えた行政企業体が運営する発足したばかりのエミュレータ事業の客員研究者として参画した。「あの日」の現象とエミュレータ事業には大きな関りがあるはずだと考えていたサリリサは、何としてもこの事業に入り込む必要があった。そして、客員研究員の公募を見つけた。端的に言えば客員研究者として入り込むために必要なものはUCLへの協賛金だけだ。きっかけさえ掴めれば後は自分の実力でチャンスをものにするつもりだった。


 バイオテクノロジーやAIといった関連するテクノロジー分野ですでに大きな成果を上げていたサリリサは、すぐにその実力を認められ、主任研究者として正式な入社の許可を得た。そして、3年で役員に、5年で事業責任者のポジションに就いていた。その時、サリリサはまだ29歳だった。サリリサは知りたかった。ティア2現実の外側の人間はなぜこんなものを作ったのか。なぜ「あの日」を発動させなければならなかったのか。両親と離れて16年も教育機関に育てられ、やっと血のつながった家族と暮らし始めたというのになぜ私から肉親を奪ったのか。そして両親と兄はどうして私だけを残して死んでしまったのか。私はそれを知らなくてはならない。


 サリリサはジャーナル・レコードからサルベージできた情報を丹念に調べ上げた。だが、なぜエミュレータが作られたのかについての思想が見当たらなかった。見当たるのは方法論やその利便性と経済合理性についてばかりだった。そんな空虚な言葉では肉親を失ったサリリサにとって何の説明にもなっていなかった。だからサリリサはいつかティア2住居リージョンの住人、あるいはティア1現実の住人にこのことを問わなければならないと考えていた。そう考えなければ生きていけなかった。そして、サリリサの決意にはまだその先があった。


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