6.3 キャンディデイト

 サリリサはUCLに参画してすぐに、ティア2住居リージョンに住む人間と初期コンタクトをとったUCLの研究者たちから話を聞き、ティア2住居リージョンが少なくとも800年程度進んだ世界であることを知った。そして、サリリサたちティア2現実の人類は、ティア1現実はおろか、ティア1の移住先の仮想世界である、ティア2住居リージョンに招かれた人間すらいないことを理解した。そして今現在でも、こちらからメッセージを発信し続けているが、ティア2住居リージョンの住人から初期コンタクト以来、返答は帰ってこなかった。状況に進展がないまま、サリリサがUCLに参画してすでに28年が経過している。


 しかし、2か月前、突然事態が動き出した。サリリサは部下から、ティア1の住人からコンタクトがあったと連絡を受けた。しかもコンタクトがあったのはティア2住居リージョンの住人ではなくティア1現実、つまり「真実の現実」の住人だというのだ。そしてサリリサは内容を聞いて驚愕した。


「あなたたちが見つけた「暁の器」と「羽」の候補を連れて、私たちのもとに来てくれないだろうか。彼らと直接話をさせてほしい。」


 私たちは突然「真実の現実」に招かれることになったのだった。しかし、それ以外のメッセージ内容は奇妙な暗号のようだった。当初、彼らの目的はもちろん、彼らが何を求めているのかも分からなかった。


 それから私たちは直近で何かイベントが発生していないか様々なことを調査した。関連することはすぐに見つかった。そのうち利用するつもりでたまたま稼働させていたティア3検証リージョンで「あの日」のプログラムが発動していたのだった。そして、そこで発生した「あの日」は、私たちティア2現実と私たちの移住先であるティア3住居リージョンが体験した「あの日」と内容が異なっていた。


 私たちが体験した「あの日」に聞かされた「神の使いの言葉」のメッセージは、ティア3検証リージョンのように「暁の器」や「羽」のような抽象的な言葉はなかった。デコードするまでもなく具体的なメッセージとともにエミュレータにジャーナル・レコードの位置を示すアラートを検出させた。


 すぐに先月起きたティア3検証リージョンの「あの日」を解析し、「鐘の音」を発動させた人物と「神の使いの言葉」をデコードしていた人物を特定した。「鐘の音」を発動させた人物はエミュレータ研究者のアールシュ・アミンで、彼は「神の使いの言葉」をデコードした人物でもあった。そしてもう一人、デコードをしていた人物がいる。それはネブラスカのハイスクールに通う学生のシンタロウ・J・カワムラだった。シンタロウはメッセージ全体をデコードしていたが、後半部分のメッセージのデコード結果は、APIキーとそのキーを入れるためのプログラムの生成方法が示されているだけだ。肝心の「暁の器」と「羽」の意味が判明していない。それでも彼らが「暁の器」と「羽」に関係していると考えられた。私はエミュレータ管理者の一人、ノア・バーンズに命じて彼らと彼らに関係の深い人物をティア2現実に連れてくるように指示した。


 そして、彼らがティア3住居リージョンに滞在している間にさらに詳細な調査を行った。シンタロウに関しては直近おかしな現象に巻き込まれていることが判明している。おかしな現象とはまず、検証リージョンのデバッグモードを起因とするパフォーマンス障害に遭遇したことだ。この種の障害は通常、演算装置のパフォーマンスを正常域に戻せば影響を受けたオブジェクトも元のパフォーマンスに戻る。しかし、それには条件があった。まず前提として、演算装置の処理範囲は割り当てられた特定の区画のみを対象としている。そして、オブジェクトが演算区画を跨いだ場合、その情報が別の区画に伝搬される。さらに、複数の区画で構成されるクラスター単位でその情報の伝搬が行われるのだが、シンタロウが短時間で長い距離を移動し、複数のクラスターを跨いだため、障害復旧用のシグナルが単位時間当たりにブリッジ出来るクラスターの上限を超えてしまったということだった。その結果、パフォーマンス障害が訂正されずに後遺症として今でも身体的に異常があるようだった。


 そして、もう一つ、シンタロウはPAからヴィノを生成するという奇妙な行動をとっている。シンタロウ個人のインスペクションの報告書を見ると、どうやらシンタロウは幼少期から解離性同一障害を患っているようだった。いわゆる多重人格者だが、本人は障害だと認識しておらず、治療を受けた痕跡がなかった。そして、その症状は現在寛解していると報告書には記載されている。


 シンタロウが生成したヴィノの方は、ティア3住居リージョンにリリースされたエミュレータの新機能「ワールドセット」が一般公開された際のクリア報酬を得て、人間になることを要求したという。保全コードが働いてリジェクトされているがバリデーション結果は正常を示している。つまりはこのヴィノは人間として変換移行が可能だということだ。このヴィノの名前はサクラという。ワールドセットの報酬支払用のAIは、人間にしてほしいというサクラの望みの有効性をチェックするために、ティア3住居リージョンからティア2現実に移行すると仮定を置き、ヴィノから人間に変換移行が可能かどうかの検証をかけたのだろう。そんなことが可能なのだろうか。これまでどれだけその実験を繰り返し、失敗してきたことか。このサクラというヴィノも特別だと考えた方がいいだろう。


 今のテクノロジーは人間をエミュレーション上で表現することもヴィノを生み出すこともできるが、ヴィノを人間に変換することはできなかった。経緯から推察するのであればサクラはシンタロウの解離性同一障害の1人格なのかもしれない。しかし、それがヴィノから人間に変換できる根拠にはならないし、1人格をPAに割り当てられる理由にもならない。すでにティア2では解離性同一障害が発生する理学的作用が解明され、一つの人格に統合する治療法が確立している。そして、その研究の過程で人格とPAの関係性も実験により明らかにされている。


 プロセッサもPAも解離性同一障害の別の人格間で共用して使うことはできない。また、各人格にそれぞれ固有のプロセッサとPAを与えればよいということでもなかった。それぞれが別のプロセッサとPAにリンクすれば、拠り所となる自我を保つことができずに融解した人格の破片だけになってしまうことは実証済みだった。成人した人間が障害を治療せずに複数人格を持ったままであることはまれだが、その教訓を生かして、今では複数のプロセッサ導入やPAの並行稼働はプロセッサの禁則コードにもなっている。


 全くの仮説ではあるが、もしもシンタロウの別人格がサクラで、サクラがシンタロウとは別のPAを使いこなしていて、さらにそのPAと蓄積データを媒介にサクラをヴィノに移植したということであるならば、私たちの研究が見逃していたパターンが存在することになる。これもティア3検証リージョンの「あの日」と同じように私たちが知らない事象だ。


 それにティア1の住人が「彼ら」と表現したのは明確な意味を持っている。これまで集めた文献ではティア1の住人はヴィノと人間を明確に区別している。もしも、ヴィノとしてのサクラを含むのならば「彼とAI」あるいは「彼とバイオロイド」のように区別した言い方をするはずだ。もし候補にサクラが入っているとすれば、ティア1の住人はサクラを人間と認識しているということだ。その他にティア3検証リージョンから来た人物に特殊な点は見当たらない。アールシュ、シンタロウ、サクラの3人のいずれかティア1の住人が言う「暁の器」と「羽」の候補だろう。


 これ以上は考えても私には分かりえないことだ。そして、私にとってはそれが誰だとしても何も変わらないし同じことだ。サリリサはノア・バーンズに連絡し、3人を連れてエクスチェンジを通過するように伝えた。

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