ティア2

6.1 UCL研究所

 アールシュとエヴァンズ教授、そしてスカイラーがUCLのエミュレータ研究所に通って4週間が経過していた。このリージョンのUCL本社はオースティンではなくシアトルだった。


「学ばないといけないことばかりでさすがにうんざりするわよね。嫌な事を考えなくて済むからいいけど、わからないことだらけでほんと頭がショートしそう。ねぇチュー、あなたもそう思うでしょ?」


 スカイラーが茶トラのマンチカンを抱き抱えて話しかけている。その猫はチュー・チャン・フォンの「依り代」として利用しているポインタだ。ニューヨークのエッジオフィスから接続しているチュー・チャン・フォンの話では、ティア3検証リージョンではこの4週間に「あの日」のような騒ぎは起きていないという。アールッシュはその話を聞いて少し安心していた。ディフェクトが自動修正されていなかった自分たちのエミュータはお守がされていないコンピュータだ。ほころび始めたコンピューティングリソースが瓦解するのは早い。ノア・バーンズはあれからティア3検証リージョンが稼働しているエミュレータの面倒を見てくれているだろうか。


 アールシュたちはUCL本社の中層階にあるエミュレータ研究所のカンファレンスルームにいた。アールシュたちがいるカンファレンスルームを最上階として、下層20フロア分をエミュレーション研究所として専有している。カンファレンスルームのガラス張りの壁からは下層階の各フロアが重なりあった地層のように見渡せた。そこから、研究所に勤務する研究者たちの姿を見下ろすことが出来る。アールシュは下階で働く研究者たちを見つめながら考えていた。


 このリージョンではエミュレータ用のDCはアリゾナの荒野ではなく、コンテナ型のものを海底に沈めて運用している。ジャーナル・レコードからサルベージできたテクノロジーを解読して実装したのだ。アールシュにはそれが効率的なのかどうか分からなかった。ここにいる研究者たちとも話しているが、その原理を正しく理解しているのか疑問だった。


 それを思うとこのリージョンの研究者はまるで預言者だった。神の啓示を受け、それを民衆に伝えることこそが彼らの使命だ。そして同時に彼らは受けとった啓示の内容を忠実に実行する神の僕でもある。彼らも、また民衆も神をあがめて、神に幸福を願う。そうであるならばジャーナル・レコードが示すテクノロジーの原理を解き明かそうと科学的、理学的に追求する行為は神を試すことと同義だ。それは神への冒涜以外の何物でもない。


 アールシュはガラス張りの壁から目線を戻し、カンファレンスルームの奥のガラスケースにで飾られた一枚の調印書を見ながら別のことを考えた。それにしても、私やエヴァンズ教授にとって、このリージョンが記したエミュレータ史は非常に興味深かった。この世界ではシンタロウが論文に書いた内容と同じことが起こっている。ティア2はオリジナルの地球史からティア3を生み出した。それは今の私たちと目的も手段も同じだった。コントロールできないエミュレータの中よりもコントロール可能なエミュレータ内の方がよっぽど安全で便利で快適だ。そして、エミュレータ内の仮想世界は先進的な刺激的に満ち溢れている。


 ティア2現実のエミュレーション研究者たちは、並列稼働させたエミュレータから、自分たちの地球史に最も近い地球史を持つリージョンに目星をつけて「あの日」を待った。


 本当は自分たちが移住する前提のリージョンには「あの日」を起こさせたくはなかった。自分たちが直接伝えるべきことなのではないかと考えていたからだ。「あの日」の現象は、その意味が徐々に解き明かされることにより、この世界が仮想化世界であることを人々に強制的に認識させる意図が込められている。そしてその結果、社会的な混乱を招くことになる。いずれ近いうちにアールシュたちのリージョンでも同じことが起こるだろう。


 しかし、ジャーナル・レコードからサルベージされたテクノロジーを使って作り上げた現代のエミュレータ上から「あの日」のプログラムを解除することはおろか、プログラムの発動条件を変更することさえできなかった。それでもティア2の人々はエミュレータへの移住を実現させるためにサルベージされたテクノロジーを利用してエミュレータを実装したのだった。


 そして、ティア2の人類は移住に向けてある決断を下していた。ティア2の人類の歴史も私たちと同じく侵略の歴史だった。そして、過去の侵略を正当化し続けるという歴史認識は、現代を生きる人類にとって精神的に大きな負担を強いることにより成立している。この永遠に払しょくすることが出来ない大きな代償を伴う侵略行為よりも、対話による交渉の負担を取ることを決断したのだった。


 ティア2の人類は「あの日」によって引き起こされる社会的な混乱が自分たちの時よりも遥かに小さくなるタイミングを見計らい、ティア3の人類に対して誠意をもって交渉を始めた。そしてお互いにとって十分に合理的に見えるフェアな契約を交わした。それは主に、ティア2はテクノロジーの提供を約束し、ティア3は移住の権利や移住後の待遇を保証する内容だった。そして、お互いにエミュレータに関わる要所に人材を派遣し合い結束を強めた。


 それから35年かけて文化の差を認め合い、テクノロジー格差を縮めた。ガラスケースに収められている調印書は、その時に取り交わしたものの複製品だ。ティア3移住リージョン側の代表者には「イーライ・グローヴ」と署名がされていた。


 移住に際して先行して進められたのは、当然エミュレーティングテクノロジーだった。そして、その他のテクノロジーについては今でもティア2現実から学ぶことが多い。しかし、輸出入はティア2からティア3へのテクノロジーの輸出の一方向だけが全てはなかった。ティア3の文化はティア2と比較して大きく異なる。特に異なる特徴を持つ芸術やファッションに目を付けた初期移住者により、それらはティア2へ輸出された。ティア2の裕福層から広まったティア3の芸術やファッションはティア2の一般層にまで広がり、流行を巻き起こした。またその他にも、エミュレーション特有のテクノロジーを使って開発されたティア3の技術がティア2に輸出されることもあり、フェアな関係が持続し続ける原動力になっていた。


 今日、アールシュたちをアテンドし、エミュレータ史やそのテクノロジーを解説してくれたのはティア3住居リージョンのエミュレータ事業の創設者であるイアン・ベイカーだった。


 イーサン・エヴァンズは彼を見ながら不思議な感情を抱いていた。このリージョンには自分が存在しない。そして、曽祖父が作ったリプロジェン社も存在していなかった。それなのにUCLのような組織体とエミュレータ研究所は存在しているのだ。そしてイーサンが自ら始めたエミュレータ事業はこのリージョンではこのイアン・ベイカーと名乗る男が創始者だという。私は地球史の流れの中で替えが利くロールをたまたま担っていたに過ぎないのだろうか。


「この後はドリューがご案内いたします。私はここで。あぁ、それと、皆様はサリリサ女史にお会いするのですよね。彼女にお会いしたらくれぐれもよろしくお伝え下さい。私も彼女のお目にかかったことがございませんので。」


 そう言ってイアン・ベイカーはカンファレンスルームを後にし、ドリューと呼ばれたエミュレータ事業の責任者の女性がイアンの代わりにアテンドを続けた。イアンの言っていたサリリサはティア2現実の出身者でティア2現実のエミュレータ事業責任者だ。世界は少しずつ形を変えながら階層構造を成している。サリリサはこの住居リージョンに存在しないし、おそらくドリューはサリリサの世界であるティア2現実に存在しない。それでも、彼女たち2人はそれぞれがエミュレータ事業の責任者で、そして、そこに行きつくまでのいきさつは全く異なっているはずだ。私やイアンと同じように彼女たちもまた地球史の流れの中でたまたまそのロールを担っているのだろうか。イーサンはそんなことを考えていた。


 イーサンたちがいる世界の外側にサリリサたちがいるティア2現実と呼ばれる世界が存在する。その名前の通り、ティア2の世界ではそこが現実だ。しかし、同時にそこはティア1の住人が作り出したエミュレータの内部にすぎなかった。


 そして、サリリサたちの世界のさらに1つ上層にはティア1が存在する。ティア1の現実をノア・バーンズは「真実の現実」と表現していた。ティア2の住人でさえ未だかつて誰一人として「真実の現実」に出たことがなかった。


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