4.2 Hello, world!

 ソフィアがアールシュの研究室に籠って1週間が経過していた。アールシュはその間、不満を言いながら別の棟に用意されていた自室に寝泊まりをしてヴィシュヌの管理を続けている。


 ソフィアはカンクンからフェニックスへ戻る際、サクラにリソースを共有させた時からその有能さに気が付き、研究室で助手のようにサクラを使っていた。サクラも積極的に人間を観察しようと素直にソフィアに従っている。


 そして、ジャーナル・レコードから抽出というよりも、むしろサルベージと言った方が適切なただ単に拾い集められた情報は少なかった。圧縮や暗号化以前にソースデータ自体に非可逆のマスキングがかかっていて意味のある内容として読み取ることができないものがほとんどだ。


 さらに2週間が過ぎた頃、ルートキットのパターンがジャーナル・レコードの暗号キーとマッチした。ソフィアは、ほとんど期待していなかったが念のために対暗号化用のクラッキングパターンが網羅されたルートキットを仕掛けていた。データを展開するとそれはエミュレータ外部とメッセージを送受信する方法についてだった。それを確認したソフィアとサクラは飛び跳ねるように喜んで、メサDCの別棟にある住居スペースの個室で寝ていたシンタロウを叩き起こして自慢した。


 エミュレータ外部とメッセージを送受信するための方法とは、電波望遠鏡から所定の方角、特定の周波数でメッセージを送信すればよいだけだが、分解能と受信時の感度の要求性能がシビアだった。これができる電波望遠鏡は地球上に1つしか存在しない。地上にある超大型干渉電波望遠鏡群と地球周回軌道へ打ち上げた電波望遠鏡により、基線を延長するスペースVLBI(Very Long Baseline Interferometery)を使ったもので、利用に関するリザベーションが数年先まですでに埋まっている。交渉が可能と思われる予定はUCLの出資元であるニコラ社のリザベーションが最も近く、3日後に4時間の枠が確保されていた。すでにエヴァンズ教授経由で利用権を譲ってもらえるように交渉を開始している。


 エミュレータ外部との初回メッセージは、この後の連絡手段とエミュレータ外部へ行く方法に絞った。これはジャーナル・レコードから得た連絡手段だ。これまでの状況については説明不要だろう。4時間以内に電波望遠鏡で同じ方角のまま受信できる確証はなかったがこれに託す以外に方法がなかった。




 ニコラ社が展開する衛星通信はウィーブリンク網とは別に行政機関や公共交通網で利用する専用リンクの主要基盤としての重責を担っている。その責任者を務めるライアン・ハミルは元々神経質な性格だったが、この職に就いてから尚更に神経質にならざるを得ない状況にいた。


 ライアンは特に専用リンクを構成するバックボーン衛星に衝突する可能性がある隕石の早期発見に常に目を光らせていた。ライアンの仕事の中でもこの脅威を発見した場合に立てなければならない回避計画が重要だった、これはニコラ社が手掛ける事業の中でも、トラブル発生時の社会的インパクトが特に大きく、ニコラ社の信頼に関わる最重要事項だとライアンは考えている。ライアンは近年では電波望遠鏡を使った隕石観測の手法を用いて早期発見に努めている。次の定期観測が3日後に迫っているというのにUCLからリザベーションの利用権を譲ってほしいと連絡があった。正直、相手をする気にもならなかったが、ふと見た連絡先はヴィシュヌプロジェクトの記載があった。ライアンは懐かしさと苦しさが折り重なるような感情を思い出し、そして心がざわめいた。


 ライアンがデトロイトのハイスクールで過ごした数年間は地獄だった。体が丈夫ではなく、人付き合いも苦手なライアンは常にスクールカーストの最底辺だった。校内カメラの死角で受けた壮絶な暴力のせいで、ライアンは左目のフィジカルとしての視力を失っていた。自己細胞から潰れた眼球と角膜は培養できたが、網膜に血液を送っている動脈の一部が詰まり、バイパス手術は失敗した。フィジカルの網膜への血流が途絶えて視力は戻らなかった。その後、人工網膜を移植し、そこから網膜投射を行う技術を使っているので通常時不自由することはないが、あの惨めで陰惨な経験は自分のモチベーションを下げないためのツールとして蓄積データから消去していない。


 そして、ハイスクール生活唯一の救いであったスカイラーのことも決して忘れていなかった。スカイラーはダンス部の中心的存在でスクールカースト最上位にいた。スカイラーはライアンとはまるで正反対の位置にいた。ライアンから見たスカイラーは本当に輝いていた。そして、誰よりも一番美しかった。ライアンの目にはスカイラーはずっとそう映っていた。スカイラーは学校内で唯一ライアンのことを気遣ってくれた人物だったからだ。


 いつだって私が深刻な状況になりそうなときに注意を向けて助けてくれた。視力を失った際もスカイラーがあいつらを押しのけて病院まで付き添ってくれた。私が、卒業を前に転校してしまったのが今でも気がかりだった。転校を前にスカイラーと話をすることができなかった。タイミングがなかったと言い訳をして、自分自身をごまかそうとしている自分に気が付いてしまい、情けなかった。本当はハイスクールであいつらに顔を合わせるのが怖かったのだ。だけどそれをずっと後悔している。あの時、スカイラーに会いに行くべきだった。

 

 私に連絡してきたアールシュと名乗るUCL所属の元オプシロン社の研究者にそれとなくスカイラーのことを聞いた。ハイスクールの同級生だというと彼は気を利かせてくれた。スカイラーが明日、オースティンのUCL本社に出向くこと、そこで食事でもしながら話をしないかと提案してくれた。もう30年も前のことだが、今でも忘れてはいない。スカイラーにあの時の感謝伝えなければならない。




 スカイラーは憂鬱な気分でメサの研究室にいるソフィアとアールシュを訪ねた。「あの日」以来、スカイラーの不安が晴れることはなかった。その腹いせのように、可愛らしい東洋人の少女を模したヴィノのサクラを嫌った。ヴィノに差別意識があるわけではないが性産業をルーツとするサードアイアン社のヴィノに、元々よいイメージを持っていなかったのだ。さらにソフィアがサクラに心を許しているのが見て取れて不快だった。そんなことばかりが頭に浮かんでしまうスカイラーは、自分のことが嫌いになりそうだった。どうしてこんな嫌な奴になってしまったのだろう。日課にしていたランニングもトレーニングも「あの日」を境に休んだままだ。そのせいなのかまるで自分の身体に濁った水がたまり続けているようだった。


 UCL本社の89階には来賓客をもてなすためのレストランが入っている。アールシュはスカイラーに事の経緯を説明し、ライアンとの食事の席でリザベーションの交渉をしてほしいことを伝える。スカイラーはそれを快く承諾してくれた。そしてライアンのことを思い出して、懐かしいと機嫌を直していた。アールシュはスカイラーの様子が少しおかしいように見えたので心配していた。初対面のはずのサクラとシンタロウとあまり口をきかずにいたので、いつものスカイラーとは違うように見えた。「あの日」以来体調がよくないと言っていたのが続いているのだろうか。


 ライアン・ハミルは金髪を丁寧に整え、新調したばかりのシャツとスーツを着て時間丁度にUCL本社のロビーに現れた。出迎えたスカイラーとアールシュがレストランフロアにエスコートする。3人でシャンパンを飲み、しばらく世間話をしてからアールシュは席を外した。


 スカイラーはライアンのことをよく覚えていた。実際スカイラーはライアンのことを気にかけていた。スカイラーは正義感が強く、人よりも強い身体に生まれた理由は、自分より身体が弱い人々を守ることが使命なのだという両親の教えを忠実に守っていた。そして、なによりも自分自身も本気でそう考えていたからだ。そしてスカイラーはライアンが徐々に筋力が低下していく若年性の廃用性筋萎縮を抱えていて、特に左足が不自由なことを知っていた。ライアンが上級生に暴力を振られて足を骨折した時、スカイラーが付き添った病院でそれを知った。ライアンはそれを誰にも言わなかったので尚更スカイラーは気にかけていたのだった。ライアンを見たスカイラーは、その女性らしい厚みのある唇の口角を上げ、笑顔を作った。


 ライアンはスカイラーの艶めいた唇と、とがった口角に見惚れた。ハイスクールのことを思い出す。テクノロジーに疎かったスカイラーに色々な情報を提供したのはライアンだった。スカイラーは他のダンス部にいる女生徒とは違ったタイプだった。友達との時間以外に一人の時間を過ごすことを大切にしていた。ライアンはハイスクールの図書館でスカイラーを度々見かけた。彼女がコンピュータサイエンスの文献を見ていた時、ライアンはスカイラーにその分野に興味があるのか話しかけた。スカイラーはそうね。おかしいかな。と答えた。その答えるスカイラーにライアンは益々好感を持つようになった。


 そして、図書館でスカイラーを見つける度に、これからのテクノロジーについて話をした。バイオテクノロジーのニュースを追っていたライアンは今後、10年以内にシリコンタンパク質の化合物の生成が可能になること、それを使ってコンピュータを人体に取り込んで利用するようになること、そして、それは人の能力を急速に加速させるようになることをスカイラーに語った。もしその時が来たら躊躇わずに利用するべきだと力説もした。スカイラーはその話を真面目に聞いていた。スカイラーはその後、コンピュータサイエンスの道に進み、それから16年後にプロセッサの一般販売が開始された際、ライアンが語ってくれた通り、少しの迷いもなく初期ロットを購入して接種した。もちろんライアンも同じだった。


「スカイラー。また君に会えてうれしいよ。君には本当に感謝している。いつか君に恩返しをしたいと考えていたんだ。」




 ライアン・ハミルが譲ってくれたリザベーションを使い、アールシュは電波望遠鏡からメッセージを送った。10分後にあっさりと返答が来た。


「管理者のノア・バーンズです。メッセージをありがとう。こちらへの連絡方法は衛星で観測可能なパルスとして送ることができる。観測ビューでそちらを見る限りニコラ社の11179号の衛星が手ごろだ。周波数は741PHzでどうだろうか。送信データは今と同じシグネチャで問題ない。そちらが受信したデータは、このメッセージに添付してある展開用のデコーダにかければいい。それから、エミュレータの外部へ出る方法についてだ。こちらへのアクセスは結論から言えば可能だ。細かい条件について衛星経由でやり取りしよう。」


 ニコラ社の衛星11179号の独占権はライアンとエヴァンズ教授がその日中に契約を締結し、UCLに引き渡された。アールシュは衛星経由でノア・バーンズとのやり取り続けた。そしてノア・バーンズから聞いた世界の構造はこうだった。


 エミュレータ内の世界は「リージョン」と呼ばれている。そして、リージョンは複数存在している。ノア・バーンズたちのいる現実とリージョンは行き来が可能となっているという。リージョンの存在理由は住居を目的としたものが主だ。アールシュが考えていた通り、エミュレータ内であれば自分たちの意思で様々な制御が可能で、自由度や安全性が高まる。リージョン内に移住したい人間はたくさん存在するという。


 アールシュたちのいるリージョンは検証用のエミュレータ内であり、住居用のリージョンではなかった。そのため、デバックが仕掛けられており、また異常検知が遅れていた。ウィルコックスの異常はまさにアールシュが仮説立てた事象と一致していたのだった。そして、住居リージョンはアールシュたちのリージョンよりも、35年ほど進んでいる。ノア・バーンズたちがいる現実世界も同じく35年進んだ世界だという。


 アールシュが大きな衝撃を受けたのは、アールシュたちが住む世界は「ティア3」と呼ばれる第3層の仮想世界であり、ノア・バーンズたちは「ティア2」と呼ばれる第2層の仮想世界にいるのだという。それぞれのティアに現実と仮想があり、現実は一つ上のティアの仮想世界であり、仮想は一つ下のティアの現実世界だった。つまり、アールシュたちはノア・バーンズたち「ティア2」が作り出したエミュレータ内の世界であり、ノア・バーンズたちがいる「ティア2」の現実とはつまり、ティア1が作り出したエミュレータ内のリージョンの一つだということだ。


 そして、アールシュたちの世界から35年で現実とリージョンの行き来が可能になるほど大幅にテクノロジーが進歩した理由は「ジャーナル・レコード」からデータのサルベージが進んだおかげだという。自然科学の分野の進歩はテクノロジーの底上げにつながる。底辺の広さが頂点の高さを決めることは研究者であるアールシュも十分に理解していた。


 ノア・バーンズたちティア2の住人は、かつて、ティア1の住人とコンタクトをとったことがあるという。それはアールシュがノア・バーンズとコンタクトをとっていることと全く同じ構造で階層が違うだけのことだ。ただ、コンタクトをとった相手が、ティア1の現実の住人ではなく、ティア1の住人が作ったエミュレータ内に移住した住人だったことを除けばだ。


 その際に、ノア・バーンズたちティア2の住人は自分たちが、検証リージョンにいることを知った。考えてみれば当然のことだった。ティア1からの移住者など見たことも聞いたこともなかったのだから。そして、その他のやり取りから「ジャーナル・レコード」には少なくとも800年ほどの蓄積データが記述されていることを知った。ティア1の住人が住む住居リージョンは少なくともそれ以上に進んだ世界である可能性が高い。そして、その外側にはノア・バーンズたちが「真実の現実」と名付けた本当の現実世界があると考えられていた。ノア・バーンズたちも「真実の現実」の住人とコンタクトをとったことがなかった。


「一度こちらに来て話をしないか?こちらのエミュレータ事業の責任者が君たちと話をしたいと言っている。それに交流も兼ねてしばらくこちらの世界を見てみたらどうだろうか?これからの君たちの世界の参考になることもあると思う。こちらを案内させてもらうよ。」


 ティア3住居リージョンとティア2の現実はすでに移住も行われている、行き来可能な35年後の世界だ。アールシュたちがいるティア3検証リージョンから、ティア3住居リージョンに行けるようにさえすれば、アールシュたちがティア2の現実へ来ることが可能だという。ただし、ティア3検証リージョンとティア3住居リージョンはエミュレータ間を繋ぐ「インターコネクタ」と呼ばれるデータ通信用のハブが用意されていないので、これから構築することになるので少し待ってほしいということだ。こちらからまた連絡するといいノア・バーンズとのやり取りを一旦終えた。ノア・バーンズが、ティア3とティア2の行き来が可能だと言った理由は理屈としては分かったが現実感が全くなかった。


 エヴァンズ教授やシンタロウと話をしたが、3層程度でよかったと2人は安心していた。あまりに階層が深いと、自分たちが生きている間どころか、この世界を理解できる見込みが全く立てられずに途方に暮れてしまうところだったという。しかし、わざわざ私たちを上位階層に呼ぶ理由は何だろうか。そんなことをして彼らに何のメリットがあるというのだろうか。アールシュはあまりに簡単に事が進み過ぎているように見え、疑念が湧いていた。


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