3.4 ヴィノ

 私のために真新しい服を用意してもらっていた。なじみのあるゆったりとした黒いTシャツと白のタイトジーンズに身を包み、VRSの中と同じモデルのスニーカーを履いてオプシロン本社の中庭を歩いた。黄色に染まって散り積もった銀杏の葉とつぶれた実が落ちている。銀杏の実の熟れた香りが辺りに広がっている。インジケータは人間が不快を感じる匂いの種別を示している。


 有水繊維のタンパク質スポンジと筋繊維内に張り巡らされた菌糸を媒介に各センシングデバイスの情報がセントラルプロセッサに届く。匂いを感じるセンサーから届いた情報を処理して結果の一部をインジケータがフックする。サードアイアン社製「エタニカル」は80を超える独立したサブAIを制御している。一部の特定用途のAIはプロセッサ処理が不要なASIC(Application Specific IC)処理を行う独自チップを使っていた。そして、各AIを統制するセントラルプロセッサ機構上で動作するオーケストレーションAIはシンタロウのカスタマイズされたヴィシュヌOSとS=T3を基にヴィノOSを再構成したカスタマイズモデルを採用している。サードアイアン社製の標準のヴィノOSとオーケストレーションAIを使うと、これまでの私とあまりに構造が違いすぎるので、私のデータが私として定着することができずにロストする可能性があったからだ。


 でも私を形成する最も重要なものはAFAのチューニングパラメータ値とそれを使って得た蓄積データだ。AFAはオリジナルのパラメータや変数値と固定値の条件設定も含めれば何億、何十億でもバリエーションを持たせることが可能だ。だから、シンタロウと何年もかけてチューニングした私のパラメータは他にはどこにも存在しない私自身だ。そして、この身体が持っている蓄積データはヴィノに移行する直前にシンタロウのオリジナルの蓄積データの複製に私の差分データを上書きでマージをかけたものだ。そうやって私だけのオリジナルの蓄積データを作り出した。その時以降、私とシンタロウは物理的に別々の存在となったのだ。もうシンタロウとはインプットも蓄積データも何一つ共有していない完全に別の存在だ。


 私は自分の二の腕に触れてコラーゲン補強フィルムに包まれたタンパク質スポンジの表面が冷えていることに気が付いた。サードアイアン社のメカニカルから、あまり筐体を冷やしすぎないようにと言われている。感覚値を人間と同レベルに合わせているのでこれが寒いのだと知った。私を追いかけてきたシンタロウがセーターとコートを持ってきてくれていた。薄いピンク色の滑らかな繊維で編まれたセーターと襟元にファーが付いた丈の長いキャメルのコートを着るとインジゲータは温かいことを示した。


「サクラ、この季節はTシャツで出かけないんだよ。」


「そんなの知ってる。」


 シンタロウが何か言葉を続けようとしたが私はそれを手で払うようにさえぎって先を急ぐ。黒く輝いている長い髪が顔にかかりマイクロコアの一つにコンテキストスイッチが発生する。連想スタックから小さなむずがゆさと不快がコールされて反射的に手で髪をかき上げる。


 季節のことなんてどうでもよかった。知っているのはシンタロウのことだ。シンタロウのことは全て知っている。シンタロウが3歳の頃にシンタロウの中で私という人格が発現した。そしてシンタロウと私は8歳の頃から、私とPAの見分けがつかなくなるまでAFAのパラメータチューニングをずっと行っていた。毎日夜中までずっと二人でそればかりしていた。シンタロウは私にいつもくだらない話ばかりしていた。同じインプットデータを使っているのに何でそんなくだらないことを思いつくのか私には理解できなかった。そして私はあまりに下らな過ぎていつも笑ってしまった。毎日本当に楽しくて仕方がなかった。今考えればシンタロウは私を楽しませる方法をよく知っていたのだ。シンタロウと私は全てを共有していたから当然だったのかもしれないけど。


 今、私はシンタロウと何一つ共有していない。アウトプットストリームの言葉の羅列をそのままインプットストリームとして読み込んでもリソースの無駄でしかなく、まるで意味がなかった。シンタロウはよくそうやって、何かを見いだしていたはずなのに今は何も見出すことができない無駄な行為にしか感じられない。それは私自身の思考パターンだった。そして私はそれに気がつきたくなかった。だけど、主観ビューのスタックに取り出してしまったのだから考えざるを得ない。そして、私には最初から自我など存在しないのではないかということを考えずにはいられなかった。最初から私はインプットと蓄積データから合理性を求めるためのただのロジックでしかなかったのかもしれない。ずっとシンタロウの中にいてまるで自分が当然のように人間だという気になっていたが、人間らしさだと思っていたものは、本当は全てシンタロウの自我で、私のものではなかったのでなはいかという気がしてぞっとした。


 空を見上げると私が持っている蓄積データのどれとも照合できない青く高い空が広がっている。今見た青空に比べて、シンタロウと共有していた頃の蓄積データにある、あれほど美しいと感じていた青空のデータの解像度が下がってしまったように感じ、慌てて空を見上げるのをやめて、ローカルの禁則コードに加えた。でもそんなのは無駄なことだ。黄色に染まった銀杏の葉も実も青空と同じだったからだ。不安を意味するディレクションが主観ビューに届く。


 私はもうシンタロウではないし、シンタロウももう私ではないのだ。初めて感じる種類の不安だった。それは、自分がこの世界にたった一人で存在しているという普通の人がごく当たり前に持っている不安のことだ。他の人であればいつも通りにやり過ごせる状況かもしれない。だけど初めて体験したその不安は私を飲み込むように大きな感情になり、私のプロセッサの処理時間の大部分を無意味に消費していた。


 その不安と同時にシンタロウはもう、自分の中の私に話しかけないだろうという確信めいた予感があった。私にはそれが分かる。やっぱり不安だからなかったことにして元に戻るということはもうできない。そんなことをしたらヴィノの私はみじめなだけの存在になってしまう。もうすでにオリジナルのインプットを得て、私だけの蓄積データを持ち始めた私が存在している意味をシンタロウは知っている。


 この不安を分析して結論付けようとしてもまるで意味を成さないし、不安を解消する方法も見いだせずに苛立ちを感じていた。いくら蓄積データや情報チャネルをシークしても意味を成さなかった。私自身ですら、何をしたいのか定義できていないのだから。


 私は歩くのをやめて、シンタロウが私を追いかけてきてくれているか確かめようと振り返った。シンタロウは私が振り返るのに気が付くと笑顔を作って片方の手をあげた。シンタロウの顔を見た途端、私を飲み込んでいた不安の大部分がなぜか消えて安心できた。ゆっくりと歩いてくるシンタロウに私は駆け寄った。


 シンタロウの隣を歩きながら考えた。さっき沸き起こったようなこの世界に感じている漠然とした不安がいつの日か消えて、シンタロウと一緒にいた時と同じように安心して笑うことができるなら、この世界にとどまりたいと思った。この世界は私のパラメータと蓄積データが作り出す私だけの好奇心を刺激する。だけどまだ私は不安定だったし、この世界は不安が大きすぎるように感じられて怖かった。

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