3.3 3つの条件

 アールシュはメサの研究室でシンタロウを迎えていた。てっきり、私よりも年上の人物だと勝手にイメージしていたが、シンタロウはまだハイスクールの少年だったので驚いた。私より一回り背が高く6フィート近くあるシンタロウは、私と同じくアジア系だが、名前や雰囲気から極東にルーツがあるようだ。


 着古した白いTシャツと破れそうなブラックジーンズにすり減ったスニーカーを履いている。失礼だが、あまり高度な教育を受けているようには見えない。アールシュはそれとは対照的に糊のきいた薄いブルーのシャツとしっかりプレスされたグレーのスラックス、そしてブラウンのスウェードのドライビングシューズを履いていた。実際アールシュは裕福な家庭で育ち、十分な教育を受けてきた。そのアールシュから見ればシンタロウはウィルコックスに向かう際に通った町で見かけた人々と同じだった。第一印象では自分との接点を見出せなかったのだ。


 黒い長い髪をサムライのように一つに束ねたシンタロウは、自分を見定めようとしている私の視線に気が付き、切れ長の目を伏せて決して目を合わせようとしなかった。ナード特有の振る舞いが、私の持っている持つ物静かでシャイなサムライのイメージと重なった。


「VRSでもいい?」


 若者らしいイントネーションで話すシンタロウの要望に、アールシュはもちろんと答えて、シンタロウがハンドリングするVRSに網膜投射を切り替える。シンタロウは一人の女の子とともに待っていた。シンタロウと同年代の黒い長い髪と黒い瞳を持つ、背の高い痩身の女の子だった。見た目からするとシンタロウと同郷の人間だろうか。シンタロウと同じようにラフな格好をしている。ゆったりとした黒いTシャツと真っ白いタイトなジーンズとスニーカーを履いている。


「サクラ、あの日のデータを流してくれる?」


 サクラと呼ばれた女性は小さくうなずいて平面ビューに誰かの主観映像を出した。


 シンタロウの説明によれば「鐘の音」も「神の使いの言葉」もどちらも本体はパルス型コードであり、プロセッサに指示を出すためのリモートコールの一種だという。音や音声自体はパルス型コードと一緒に流れただけのダミーだった。しかし、コードでも何でもないが、ただの音と音声というわけではない。おそらくプロセッサを接種していない人間だけをターゲットにしたものであり、外部から発せられたものではなかった。シンタロウの家で飼っているペットの犬も猫も何の反応も示さなかったという。もちろんどこの映像や録音データにも残っていなかったし、さらにプロセッサを接種していない人間が使う外部グラスやコンタクト、リング、イヤーピース類のライフログ取得デバイスのインプットデータにも何も残っていなかった。


 そして、プロセッサを接種していない人間にだけ聞こえたというその音は、プロセッサ持ちが聞いたものと比べるとそれほど強烈な「鐘の音」でもなかったし、「神の使いの言葉」は言語や個人の思想ごとにニュアンスが異なるいくつかのバリエーションを持った固定のメッセージが流れただけだという。それらの情報は、シンタロウが通うハイスクールで収集したものをファクトソースとし、旧ネットからキュレーションして統計上有意な母数のデータにまとめたものだった。シンタロウの通うハイスクールのほとんどの学生はプロセッサを接種していない。


 プロセッサ持ちはプロセッサを接種していない人間とはまったく異なる状態に遷移させられていた。「鐘の音」として音と同時に流れたパルス型コードがプロセッサにリモートコールを通すためのスキャンとアナライズを行うコードになっていた。そして「神の使いの言葉」と呼ばれる声の方と同時に流れたコードが、スキャンとアナライズによって特定されたスタック領域からオーバーフローを引き起こし、複数の実体コードを流し込んで実行されるためのラッパーコードだという。実体コードとはコネクションを遮断した上でPAをハングさせるコードやオキシトシン、セロトニンを過剰分泌させる命令セットのことを指しているのだろう。


「なるほど、音とコードは別物ということか。それで色々と見聞きした情報の整合性がつかないことがあるのか。そして、プロセッサの有無で別のソースを元にしたものを聞かされていた。だが、プロセッサを接種していない人間が聞いていた音が、プロセッサ持ちに聞こえなかったというのはどうしてそうだとわかるんだ?それに、私のプロセッサは確かに停止していたんだ。その間も声は聞こえていた。それに声の方のコードはエンコードされていた。メッセージの前半はデコードできたが、ホルモンを調整したタイミングでデコードができなくなってしまった。これらはどういうことなんだ?」


 アールシュがシンタロウに聞く。


「プロセッサ持ちが聞いていたのは、その音と音声が蓄積データに直接インポートされたもので、追体験する際に聞いたものだったからだよ。純粋に外部からのインプットデータから得た記憶ではないことは蓄積データとライフログを照合すればわかるはずだよ。俺のデータには外部からのインプットデータとして音も音声もなかったからね。声と一緒に流れたパルス型のコードが最初にプロセッサで音声を生成して蓄積データに直接インポートしているんだ。プロセッサを接種していない人が聞いている音と同じタイミングでね。内容は覚えているけどPA上のデータとして残っていなかったでしょ?音の方も同じ手法だよ。」


「ローカルスタックにあったのは追体験したばかりのデータということか。私はそれを別の人間のPAにゲストモードで入ってデコードしていたんだ。ホルモンを調整したら言語として聞こえなくなったのは?」


「音の方のコードがスキャンした結果を解析して、声の方のコードが動作するようにホルモンを調整していたんだ。個人のプロセッサに合わせた実行コードを生成していたということだね。 えっとアールシュって呼んでいい?アールシュの蓄積データにインポートされたのは、あくまでもホルモン調整してある場合にだけ言語として意味を持つデータだね。追体験して、音声として聞いてしまえば本当の記憶になるけど、追体験する前にホルモン調整してしまったら、言語として認識できないものとして本当の記憶になってしまったということ。あの時のホルモンバランスに調整し直して、蓄積データの方からもう一度、読み出せば聞き取れる言語として追体験できるはずだよ。理論上はね。」


 シンタロウが続ける。


「でも、アールシュは言語として認識できなかっただけでしょ?俺なんか「鐘の音」の4段階目のスキャンで外部ブロッカーがサチって泡吹いて気を失ったよ。身体にかなり負担がかかる攻撃的なコードだよ、あれは。あのまま気を失っていたら、ブロッカーが壊れるまでスキャンされていたかもね。そしたら記憶が混濁してしばらく入院ものだよ。すぐにサクラに起こしてもらったから助かったけどね。」


 主観映像が揺れて倒れ、一瞬映像が切れたがすぐに起き上がった映像が続いた。これはシンタロウのライフログから切り出した主観映像ということか。ソフィアが気を失ったのもシンタロウと同じく個別カスタマイズの外部ブロッカーをしかけていたからだろう。一般的なブロッカーは通常、OS内に存在する。OSの外側で機能するカスタマイズブロッカーを仕掛けるには自分自身でプロセッサ上のコードをメンテナンスする必要がある。それは一般人には容易なことではない。もしかしたら、ある水準以上のレベルのソフトウェアエンジニアをあの場に立ち会わせないように意図したのかもしれない。


「でも、サクラさんのPAもハングしていたんだろう?」


 アールシュはそういってサクラと呼ばれた女性に声をかける。


「いいえ。私の方はハングしなかったんです。シンタロウを起こしたら、すぐにシンタロウのPAはハングしてしまったけれど、独立した方の私は機能し続けていました。」


 サクラの答えを聞いてアールシュは困惑した。サクラの言葉をそのまま解釈すれば、サクラは人間でもヴィノでもなくPAだと言っているように聞こえる。シンタロウが論文に書いていた自立稼働させていたPAとはサクラのことだったということか。


 アールシュが知る限り、PAを自立稼働させるのは不可能だった。インプットと自我は対の存在で、PAはその中間を取り持っている。一人の自我に1つのPAが大前提だ。PAはいわば自我の身体拡張だ。PAは人間のインプットデータをフックしてプロセッサ経由でデータ処理を行う。データ種別と前後のコンテキストで判別して行う処理はパターンに過ぎず、あらかじめ決まったパターンに振り分けられるだけだ。このパターンこそが、自分の判断基準であり、ものの尺度として自我を反映したものだ。PAはその上でインタラクティブに見える応答が可能というだけの単一AIに過ぎない。


 自分とは別にPAをもう一つ稼働させるとはつまり、自我を割り当てずPAだけを動作させるということだ。機能するはずがなかった。それにPAを擬人化して何の意味があるというのだろうか。会話の相手がほしいのなら性能がいい対話型AIがOSS(Open Source Software)でもたくさん存在している。


 PAがVRSにいるというのもおかしな状態だ。それはPAを並列稼働できないのと同じ理由だ。蓄積データを思考プロセッサにダンプしてVRS専用のAIにすればできないこともないが、シンタロウの言っていることはそういうことではないはずだ。


 仮にサクラがヴィノであれば全てあり得る話でアールシュにも理解ができる。ヴィノはヴィノ固有のインプットを持っている。五感に対応する複数種類のセンシングデバイスを持ち、セントラルプロセッサには複数AIを並列実行し、さらに多層構造化してブレ幅のある感情を実装している。セントラルプロセッサのディレクションを遅延させ、先に主観ビューに送ることであたかも自身が自身の振る舞いを全て決定しているような錯覚を与えて自我を再現している。それは、心や精神、自我と呼ばれるものはフィジカル信号を受け取ってそれがなんであるかを解釈しているにすぎないという考えに基づいたアルゴリズムだ。ヴィノは人間のようにその信号をフックしてタグ付けすることやデータそのものを書き換えて意味を変化させることさえできる。そして、もっとも重要な蓄積データはいくつかのクラック方法で個性のようなものを持たせることもできる。例えばAFAのようなものだ。ヴィノであれば独立してVRSに存在させることは可能だろう。しかし、ヴィノは高価だ。少なくとも350万ドルはする。一般人が個人で所有できるようなものではない。


「不思議だと思ってるんでしょ?サクラは3歳の時にはもう俺と一緒にいたんだ。俺とは別の自我がある。いつかサクラを現実世界に連れて来てあげたいと思っていたんだ。」


 シンタロウは表情を曇らせ、うつむいて少し笑った。アールシュはその表情の意味を知っていた。それはまるでエミュレータが意味するものを一般人に理解されないと知った時の私だったからだ。シンタロウがうつむいたまま続けた。


「現実的には、諦めかけていたんだよ。とてもじゃないけど人間を作り出せるような時代はまだずっと先だ。俺が生きているうちには絶対に無理だろうね。それじゃあ人身売買のブローカーでも探るか。でもそれって全く現実的じゃない。そんな時にヴィシュヌプロジェクトを見つけたんだ。ヴィシュヌプロジェクトは希望だったんだよ。サクラに会うために俺がエミュレータの中に移住すればいいんじゃんって考えられるようになったんだからね。まさに逆転の発想だったよ。」


 シンタロウは初めて私の目を見て話を続ける。


「でも、それまでサクラはずっと制限されたままだろ。俺の体の制御すら取れない。だから少しでもサクラを自由にしてあげたかった。ヴィシュヌプロジェクトがまだ概念モデルだった時、エミュレータのコードを公開していただろ。あれを見ながらずっとS=T3のコードを書き直していたんだ。サクラ用にパラメータ調整するのと並行しながらね。今じゃもう俺のS=T3は元のコードがないくらいだよ。だからアップデートをそのまま適用できなくて、コードを見ながらサクラ用に書き直して適用している。コードの量が膨大だから結構しんどいんだけどね。ヴィノについてもサードアイアン社のサンプルコードを見て複数AIが必要だってことは知っていた。それも応用している。俺とサクラは別の自我はあるけど体は一つだから。ヴィノのアーキテクチャを参考にサクラ用に中間層のフィジカルを持たせている。自立稼働させるためにはリソースがたくさん必要で俺のOSが邪魔になった。それで最低限のリソースで動くようにOSSのマイクロOSに乗せ変えて使っている。そっちに直接俺用のPAも載せている。で、もう一つをサブOSとしてヴィシュヌの初期コードを基にした軽量エミュレータを起動している。サクラ用にカスタマイズしたS=T3もそこでエミュレーションしている。もちろん複数AIで動作させてね。」


 アールシュは言葉が出なかった。「いずれ誰かの目にとまるはずだ。それこそが重要なんだよ」そう言ってヴィシュヌのソースコードを公開したのはエヴァンズ教授だ。私が教授と呼んでいるのは、実際にエヴァンズ教授が私の出身大学の名誉教授だったからだ。そして、大学にエミュレーション研究室を最初に作ったのもエヴァンズ教授が大学に勤務している時だった。今はエヴァンズ教授の教え子が幾人も教授となり、そのうちの一人が研究室を引き継いでいる。大学の頃に直接エヴァンズ教授の指導を受けたことはないが、敬意をこめて教授と呼んでいる。


「どうしてそこまでするんだ。あの公開コードにほんのワンライナーのコメントがあっただけだろう。あれっぽっちの解説を読んでプロセッサ用のOSコードに落とし込むなんて馬鹿げている。どれだけ時間をかけたんだ。」


 アールシュはあきれたが、純粋にその意味を知りたかった。


「サクラは最初の友達で俺のことを何でも知っている。サクラがいなかったらと思うとぞっとするよ。だってそうだろ?3歳でプロセッサを入れたからブルーカラーの両親を無条件に尊敬できる期間がなかったんだ。いつも安心できなかった。初期のPAは両親の言葉の正誤や意味の取り違いをわざわざ伝えてきたからね。嫌な奴だよ。おかげで両親のことを見下さなければならなかった。でも、知りたいことは何を聞いても答えてくれた。小さいころのなんでどうしての問いかけに永遠に答えてくれた。でも、プロセッサ持ちの子供なんて周りに誰もいなかった。それどころか大人でさえ誰もプロセッサを持っていなかった。本当はちゃんと調整すれば、よかったんだろうけどね。分かる人がすぐ近くにいなくて最初の調整があまりうまくいかなかったから、人とは違うって常に思わされていたよ。実際周りも俺にどう接していいのか困っていたみたいだよ。それが嫌でプロセッサをオフにしてみたりもしたけどね。それを知っているサクラがいなかったら耐えられなかったよ。でもどうやら俺とサクラは蓄積データを同じままにしておけそうになかった。だからプロセッサに人格を与えられるというニュースを見た時にこれだと思ったね。すぐに伯父さんの仕事の手伝いをしてS=T3を買ってもらったんだ。そこからだよ。人生が始まったのは。サクラと一緒に色々言い合いながらチューニングしたりして。それで少しわかったんだ。サクラは俺自身だった。サクラを通して自分を見ているようだった。サクラが感じていることは俺が気に留めなかったり、理解できなかったりしただけで俺が経験していたことでもあったからね。だけどもうサクラを解放してあげたいんだ。それはサクラのためであって俺のためだ。だってそうだろ?俺たちもう16歳だよ?」


 アールシュが18歳の時にプロセッサは一般販売された。もちろんアールシュも両親も初期ロットを購入した。周囲の家族もみなその年か翌年の第2ロットでプロセッサを導入していたのでシンタロウの話を聞きながら別の国の話を聞いているようだと感じ、しっかりプレスされたグレーのスラックスと破けそうなジーンズが何を象徴しているか分かった気がした。


「デコードデータに何があるのか知りたいんだろ?」


 シンタロウが切り出した。


「アクセスポイントのハッシュはIPFSのロケーションのことじゃない。行き詰っているんだろ?あれはAPIキーだ。意味を教えてほしかったら3つ条件をのんでほしい。」


 ああ、そうか。アールシュはAPIキーだというシンタロウの言葉で理解できたと同時にこの条件は飲むしかないと覚悟した。APIキーの可能性も考えたが、だとしてもどこの何かわからなければ何もわかってないのと同じだったからだ。


「1つ目は俺とサクラをUCLで雇ってくれ。ソフトウェアとエミュレーションの研究に役に立つはずだ。そうしたらこのままこの件を進めるのに協力するよ。2つ目はエミュレータへの移住者1号と2号を俺とサクラにやらせてほしい。俺たち以上に最適な人間はいないだろ?最後にサクラに「依り代」を用意してほしい。サードアイアン社製「エタニカル」のカスタムモデル。サクラの蓄積データと今の外観ビューでオーダーをかけてほしい。」


 アールシュは少し安心した。1つ目と2つ目はこちらからお願いしたいくらいだ。そして、エヴァンズ教授にはエミュレーション事業の人事権がある。UCLで正式に雇用するならば博士号が必要だが、必要な単位のインストールはすぐにできるだろう。この知識と経験値ならどう考えてもロストするはずがない。必要な論文も持っている。自分が移住者第1号になるしかないと考えていたが、客観性が損なわれるので別の誰かを立てたいところだった。気味悪がって誰もやりたいとは言わないだろうからそれも難しいと考えていた。最後の1つも大きな問題はない。エタニカルのカスタムモデルはベース価格が650万ドルからの上位モデルで、さらに持ち込みのデータを適用するのであればデータ投入と定着費用で50万ドルは必要だが、今年のプロジェクト予算から捻出できない金額ではない。どちらにせよヴィノについてもエミュレータに取り込まなければならにテーマの1つだった。購入するにはいいタイミングだろう。

 

「オーケー。わかった。じゃあ決まりだな。」


 アールッシュはシンタロウと握手を交わして、その日はこれからのことについて3人で夜通し話し込んだ。。


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