3.2 デコードデータ

 アールシュはこの3日間全く寝ていなかった。「あの日」体が動くようになったアールシュはエヴァンズ教授と一緒にソフィアをフェニックスのUCL総合病院に運び込んだ。ソフィアは病院へ向かう車の中で意識を取り戻したが、内耳に損傷が見られるようで起き上がることもできずに、何度も吐き戻して消耗していた。アールシュとエヴァンズ教授も軽度ではあるものの同様の症状があった。それでも幸いなことにソフィアを含め全員聴覚を失うことはなかった。


 3人は精密検査を受け、ソフィアは数日の入院、アールシュとエヴァンズ教授は通院の必要もないと診断された。あれだけのことが起こったので病院がパニックになっているのではないかと心配したが、いつも通りの静かな病院だった。この病院の状況を見る限り、あの現象による人々への影響はほとんどなかったということだろうか。実際、アールシュたちが病院にいる間、ソフィアのように倒れ込んだ患者が運び込まれるところを一度も目にすることはなかった。だが、病院中があの音とあの声の話題で持ちきりだった。あれはUCLの新しい行政放送ではないかと話す人の声や、新興宗教団体の新しい宣伝か何かなのではないかと囁き合う人々の声を耳にした。


 検査後に内耳の手当てを行った後、ソフィアは眠ってしまったので、アールッシュとエヴァンズ教授はソフィアが起きるまで病院のラウンジで待つことにした。病院に向う車の中からスカイラーに連絡すると、すぐにこっちに飛んでくるといっていた。オースティンから直行便を使うと言っていたので、今日中に来てくれるのだろう、それをアールシュに伝え終わるとエヴァンズ教授は午前中に起きた事象について話を始めた。


「君のライフログからダンプしたというデータを見た。あのメッセージの真意だと思う。アールシュ、私はまだこの続きを見たいんだ。そもそもディフェクト自体が信じられない事象だからね。元はと言えば私たちはそれを期待して、あそこにいたのだからね。だから、今さらこの事態を疑う理由がないんだよ。」


 アールシュを見ながらエヴァンズ教授はそう言って続ける。


「1つ目の条件を満たしたのはヴィシュヌが稼働を始めたことだろう。そして2つはアールシュ、君だ。図らずしもアールシュがディフェクトに触れることで、エミュレータにプログラムされたコードを起動させたのは間違いないだろうね。私が触れても何も起らなかったということショックなことだけどね。だが、これまで君を見てきたからわかる。君は私よりもずっとエミュレータの可能性を信じていることは事実だからね。そう考えると私はどこかでエミュレータの可能性を信じ切れていなかったのかもしれないな。」


 アールシュは黙ってエヴァンズ教授の話を聞いていた。アールシュはエヴァンズ教授がリプロジェン社の重責を担いながら、エミュレータ研究にどれほど心血を注いできたのかを知っている。ショックだというエヴァンズ教授の言葉は重く、簡単にそれに返すことができなかった。


「そして、その次がもっとも重要だ。「人類の進歩や進展がない期間を短縮するための知識を提供する」、この「知識」とは「ジャーナル・レコード」のことを指すのだろう。そしてアクセス方法も示されている。ハッシュ値だと言っていたね。ソフィアのPAのスタックからデータを回収できなかったと聞いたが値は再現できそうか。」


「はい、ソフィアのスタックにはデータとして残っていなかったので回収できませんでしたが、ストリーミングで私の意識を介して聞き取っていた分は蓄積データ上の記憶として残っています。そのハッシュ値に一つ思い当たることがあるので、研究室に戻って調べてみようと思います。」


「そうだな。今できるのはそれしかなさそうだからね。他のメッセージ内容もそこから紐解くしかないだろう。」


 その話の最中にソフィアからエヴァンズ教授にコールがあるのに気が付いた。彼女が起きたのだろう。


 それからソフィアの病室で少し話をした。アールシュがソフィアのPAをゲストモードで利用したことを伝えると、彼女は激怒して、アールシュに手当たり次第にものを投げつけた。二人はソフィアが元気そうで内心ほっとした。院内のオペレータから受けた説明の中に、ソフィアのバイタルからインジケータが不安や恐れを指しているとあった。それを聞いて二人は心配していた。通常時のバイタルからそれが見て取れるということは、精神疾患を伴っている可能性があるということだったからだ。オペレータは、彼女が低調でふさぎ込んでいるようであれば要注意だと言っていたので、こんなにも感情を露わにしている分にはひとまず問題がないということだろう。スカイラーはもう少し遅くなるそうなので二人は先に帰ることにした。アールシュはメサの研究室へ、エヴァンズ教授はマックスを連れて一度オースティンに戻ることにした。




 そして、アールシュはメサDCにある研究室に戻ってきてから3日が経過していた。デコードデータから得た情報で唯一となる具体的な手掛かりは「ジャーナル・レコード」だった。そのアクセスポイントとして示されたアドレスは旧ネット上のIPFS(InterPlanetary File System)のアドレスだろうとあたりをつけていたが該当するオブジェクトは存在しなかった。類似のハッシュ値のアドレスを持つオブジェクトを探したがそれも皆無だった。それならこのハッシュはなんだというのだろうか。エヴァンズ教授もまったくあたりが付かないと言ったきり連絡がないところを見ると進展がないのだろう。やはり後半部分に何かヒントがあったのかもしれない。デコードできなかったのは致命的だ。エヴァンズ教授が聞き取った後半部分を確認してみたが全く理解できない内容だった。


「対ノ啓示ハ一ツノ暁ノ器ニ下ルデショウ。汝ラガ求メタ主ノ羽ノ一片ハ、イズレソノ手ニ抱カレ、真実ノ大地デ根ヲ張ルコトデショウ。」


 アールシュは研究室で一人ため息をついた。そして椅子に浅く座り直し、大きく背をそらせて天井を見た。情報チャネルでは「あの日」の現象を「鐘の音」、そして「神の使いの言葉」と呼称することで統一され始めている。私以外にあの状況で「神の使いの言葉」をデコードできた人間がいるだろうか。それに、マックスはいつも通り落ち着いたままだった。つまり「鐘の音」も「神の使いの言葉」も聞こえていなかったに違いない。人間以外、あるいはプロセッサの有無は関係あるだろうか。いや、UCLの公式アンケートで聞いていると答えている人数が多すぎる。プロセッサは関係がない。調べるとすれば、プロセッサを持っていない人間にも私やエヴァンズ教授と同じように聞こえていたかどうかということくらいか。情報チャネルで何人かのインタビューを見る限り同じような言葉を聞いていたように見えるがそれがプロセッサ持ちかどうかまでは分からなかった。UCLの関係者はほぼ全員がプロセッサを接種しているのでプロセッサを持っていない人間の意見を気軽に確認することができず、もどかしかった。そういえば、地質調査会社のマーティンはプロセッサを接種していないと言っていたな。いよいよアクセスポイントについて打つ手がなくなってしまったのでそのあたりも調べてみることにするか。


 アールシュが考え事をしているとPAから広報用のスタックに届いたデータをインポートするか確認があった。データは論文でタイトルは「エミュレータの実現と新大陸発見の類似性」だった。このタイトルであれば、おそらく移住までは踏み込んでいるのだろう。アプローチはよさそうだが、今は論文を読んでいる場合じゃないなと思った。そう思いながらも先に進むための手掛かりがなく、打つ手がない状況で持て余していたアールシュは、興味を惹かれるままなんとなくPAの要約をストリーミングで眺めていた。そして、いくつかのキーワードを見て持っていたコーヒーカップを落とした。


「第二段階」、「自然法則の解除」、「人類史のアップデート」、「ジャーナル・レコード」


 メッセージをデコードしていたやつが自分の他にもいた。アールシュは慌てて内容を精読してさらに驚いた。自分と同等かそれ以上の知識の持ち主だとわかったからだ。エミュレータへの移住の妥当性とそのメソドロジーはアールシュが考えていることと同じだ。そして、現実がエミュレータであることの立証方法の補足にあの出来事が詳述されていた。


 この論文の著者は「あの日」、2つのPAを並列稼働させて、そのうちの1つは自立動作させていたのだった。自身のPAは4つ目の鐘の音で本人の意識と同時に落ちてしまったが、自立させていたPAはその後も動作し続けていたという。自立したPAが勝手にデコードしたというのだろうか。それはいったいどういう状況なのか。なぜそんなことをしていたのかも分からないが、結果としてデコードデータを保持できているという。


 あの日を書いた補足部分も驚きだったが、エミュレーション分野の考察で驚かされたのはエヴァンズ教授以外では初めてだった。論文には署名と連絡先があった。署名には「シンタロウ・J・カワムラ」とあるが初めて見る名前だった。アールシュがこの分野の著名な専門家を知らないはずがない。アールシュはPAを介さずにマニュアルでシンタロウに連絡をしていた。


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