3. 取引

3.1 ソフィア・コールマン

 ソフィアの実家であるコールマン家は、代々高級レストランブランドを複数展開するクラーク家の父と、入植当初から続くバージニアの旧家であるコールマン本家出身の母が結婚したことで生まれた名門の家筋だった。


 UCLの行政圏では、世帯を形成するための手段として、結婚以外の法制度と行政手続きのバリエーションがいくつか存在する。いずれも課税対象が個人から世帯となるという部分ではメリットは同じだった。しかし、資産家クラスは最も伝統のある結婚制度を好んだ。結婚制度は他の制度に比べ厳格な自制を強いる制度だったからだ。そして、末子である父と母は自分たちの置かれた立場をよく理解し自制に努めた。


 ソフィアは旧家出身の母に似て気品があり美しく、商家の父に似て目端が利いて計算高く賢かった。そしてソフィア自身として持って生まれた性格は粗野で闘争心が強かった。自分にちょっかいを出してくる相手には上級生でも構わず食って掛かった。それがソフィアへの好意を秘めたものであれば尚更反発した。ソフィアは低俗で知性が感じられない同年代の男の子に興味を持つことができなかったし、だからと言って同性の子たちと群れて過ごすこともなく、居場所を求めるように父親のレストランに出入りするようになった。ソフィアはすぐにレストランが気に入った。顧客たちの上品な振る舞いや知的な会話が心地よかった。お茶や食事を楽しんでいると、父と親しい顧客の席に招かれることも少なくなかった。


 父のレストランは食事を提供する場所というだけではなく、裕福で知的な顧客たちが情報交換を行い、新しい人脈を形成するための社交場でもあった。顧客たちはソフィアに様々な話をしてくれた。そして、その話の多くがコンピュータにかかわるものだった。彼らの多くがソフトウェアにかかわる仕事していることに気が付いたソフィアはコンピュータサイエンス、特にAIとソフトウェアについて独学で学んだ。


 ソフィアがミドルスクールの頃に一般販売が開始されたプロセッサの初期ロットを両親にねだって購入してもらった。バージニアにあるパブリックの工科大学でコンピュータサイエンスの博士号を取得する頃にはホワイトカラー代替用AIの提供とカスタマイズに関するコンサルティングを行うテクノロジー企業を一人で経営していた。AIがあれば従業員は必要なかったし、AIは他人よりもずっと信用できる存在だと考えていた。ソフィアは何をすれば利益を生む十分に理解していたのでただそれを実行しているだけだった。そしてこれからもずっとそんな日々が繰り返されるのかと考えると、世界が急に狭くて息苦しい場所になったようでつまらなく感じ始めていた。


 ソフィアがスカイラーと出会ったのはリブロジェン社向けのAIのパラメータチューニングをしている時だった。スカイラーの褐色の肌が真っ白いカットソーから覗く。時間をかけて鍛えられた筋肉はしっかりとした自制により細く絞り込まれている。根本から丁寧に編み込まれたボリュームのある黒い髪。遠慮なしに荒っぽくソフィアの隣に座り肩が触れる。ムスクとスパイスをブレンドした男性向けの香水と黒いピンストライプのジャケットに包まれたスカイラー自身の匂いが混じりオフィスの一画が別の空間に切り替わったように感じた。


「今日は何しているの?」


 尋問するように抑揚を抑えた声。それでいてやさしさをにじませる大人の声だった。神経質なソフィアはパーソナルエリアが広い。普段のソフィアは初対面の人間に、こんなに近くに座られたら不快を感じるはずだったが、スカイラーは違った。ソフィアは不快よりも先に緊張を感じてしまった。父と母、それぞれの本家や各分家、父のレストランに通う顧客を見て育ったソフィアは他人の上に立つ人間の振る舞いがどういったものか知っている。ソフィアは他人に対して萎縮も緊張もしない。それでもスカイラーがそばにいて緊張していた。そして初めは緊張が意味しているその理由も分からなかった。


「パラメータの最後のチューニングよ。もう終わるわ。」


 そう言って愛想笑いをした自分自身に驚き、すぐに恥ずかしくなった。スカイラーを目の前にしたら、まるで自分が取り繕う笑顔だけが取り柄の小娘になったような気がして顔が真っ赤になった。私は女であることに甘えたり、利用したりは決してしない。スカイラーは大きな瞳でじっと私を見つめてゆっくりと大きく2度うなずいて口元に笑みを作った。私よりもずっと年上だと思う。再生医療が進み他人の年齢を予測することができない。それでもその表情や視線は、私にはまだ到底真似することができないと感じさせる大人の振る舞いだった。私はずっとスカイラーのことを直視できないでいた。柔らかそうな厚い唇。とがって上向いた口角を盗み見た。胸が収縮した。背中から首筋にかけて小さくしびれるように震えが走り、心地のよいむずがゆさが後に残った。それは、私が感じていた狭くて息苦しい場所から突然解放されたような心地のよさだった。




 ソフィア・コールマンはフェニックスのUCL総合病院のベッドでこめかみに親指を当て胡坐をかいて座っていた。PAが流す情報チャネルはあの日の話題ばかりだった。あれから3日が経過していた。ソフィアのプロセッサと内耳の損傷は回復しているのでもうすぐに退院できるとオペレータから連絡があった。


 それを聞いて安心した。この病院は私の感情を逆なでする。特に、塩と胡椒も知らないのかというほど薄い味付けと安全を気にして火を通しすぎて干からびた食事は生きる喜びを奪われるようで早く退院したかった。


 ソフィアは情報チャネルで集めた情報から「あの日」に起こった現象は「鐘の音」と「神の使いの言葉」と呼ばれていることを知った。そして、その2つの現象は、音も音声も映像やデータに記録として残っていなかった。それは、ソフィアのプロセッサやライフログだけではなく、世界中のどこにも残っていないということだった。ソフィアが手あたり次第に探したがどこにもその情報ソースが保存できていなかったのだった。しかし、「鐘の音」を聞いたのは間違いのない事実だった。ソフィアには4つ目の「鐘の音」で気を失う直前までの記憶が確かにあったのだ。


 アールシュから「あの日」、私のPAをゲストモードで利用したと聞いた時、一瞬凍り付いた。怒りとともにどうやって使ったんだよって疑問に思ったけど、たぶんオプシロン社のコード経由だろうな。勝手に使うなよ、マジでイラつく。オプシロン社のコード経由からもゲストモードの利用をロックして、内部からのアクセスでもブロッカーを挟むようにプロセッサとPAの構成を変更した。一応ディープモードでスキャンもかけておこう。アールシュの奴に何されたかわかんないし。でも確かにあの時間のアクセスログが残っているけれど、アールッシュが「神の使いの言葉」をストリームで送ったというデータもデコード結果のデータもどこにもなかったし、消された形跡もない。他人のPAに対してそんなことってできるのか。仮にPAのゲストモードの権限がとられたとしても、その程度の権限でデータを削除することなんてできるわけがない。釈然としない事象にソフィアは頭を悩ませていた。


 UCLが昨日行った公式アンケートの結果をみるかぎり、行政利用者の90%以上があの鐘の音を聞いたことになっていた。そのうち68%の人間が「神の使いの言葉」を自身が認識可能な言語として聞いている。UCL行政内の人口は中央アジアの湾岸部も含めて8億人程度のはずだ。そうすると5億人が「神の使いの言葉」というメッセージを聞いたことになる。で、アールシュが言うには動物はその音を聞いていないのではないかということだった。その根拠はあの「鐘の音」のさなか、エヴァンズの愛犬マックスが何も反応せずにくつろいでいたのを見たという。そして、私のように気を失ってしまったという症状はエヴァンズに聞いたところ、部下に数人程度いたという。UCLのアンケートにもなかったので一般的な症状ではないのだろうな。そして、ENAUのチャネルも話題は同じだった。ヨーロッパでもあの現象が起こっていたのであればUCL固有の現象というよりも地球規模の現象だったと考えるのが自然だ。そしてこの人数からプロセッサを接種している、いないは関係がないことがわかる。人間にしか聞こえなかったのではというヒントからプロセッサに直接コードを流されたのかとも考えたが、このことからそれも説明がつかなくなってしまった。


 もっと分からないのは「神の使いの言葉」とやらのメッセージ内容が曖昧で意味不明だってことだ。インタビューを受けている人々が話す内容は、どれもニュアンスが少しずつ違って、一貫性がなく同一のメッセージを受け取ったとは考えづらい。複数の言語が同時に流されたことになるからその差異かとも思ったが、同一の母国語を扱う人々でも理解した内容に隔たりがあった。そして、エヴァンズもアールシュも少し整理させてくれと言ったまま、はっきり内容を言わないのでそれもまた気にかかる。


 そして、気にかかるとい言えば、スカイラーだ。私が入院した「あの日」、スカイラーが病院に駆けつけて来てくれた時の彼女の顔は、私の心配とは別になんだかとても浮かない顔をしていた。もちろん、スカイラーも「神の使いの言葉」を聞いていた一人だった。


「よくわからないけど、あれはよくないことの予兆だと感じるの。私のただの直感なんだけどね。だけど私、あれからほんとに不安で仕方がないの。どうしちゃったんだろうね、私。「あの日」からずっとおかしいままなの。ソフィアはあれを聞かなかったのだから、きっとこれからも幸せでいられるってことよ。きっとそうよ。」


 スカイラーがあんなに真面目で沈みこんだテンションで話をするのを初めて見た。いつもジョークしか言わないし、自分のジョークで大笑いしている彼女がジョークどころか一度も笑いもせずに帰っていった。病室を出る時、振り返って寂しそうに私を見る彼女の表情が頭からずっと離れない。あんなにも、か弱いスカイラーを見るのも初めてだった。

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