2.2 割れた鏡

 シンタロウは、プロセッサを接種したのと同時期からシンタロウの中に、「サクラ」という自分と同い年の女の子が存在していることに気が付いた。きっかけはシンタロウが大けがを負った時だった。祖父が子供の頃に手に入れたダイキャスト製のレトロなミニカーでシンタロウが遊んでいた時、腕を勢いよく振った拍子に指先からミニカーが抜け、チェストの上にかけていた20インチの鏡にぶつかった。割れた鏡の破片が飛び散り、破片の一部がシンタロウの腕に刺さり、20針縫う大けがを負った。手術から2週間の入院の間に術後感染症によりシンタロウは3日間高熱にうなされた。


 高熱にうなされていた2日目の夜にシンタロウは自分とは別の誰かの泣き声を聴いた。隣で眠る母親を見るがそれに気が付く様子はない。シンタロウは不思議に思い、泣くのをやめてその声がどこから聞こえてくるのか辺りを見回した。だが、姿は見当たらなかった。シンタロウは声に出してみたが誰も答えなかった。なんとなく心の中で同じことを繰り返した。その時、泣き声が止み、頭の中に「誰?」という女の子の声が聞こえた。シンタロウと答えると、声の主は、自分はサクラだと答えた。それ以来、シンタロウはサクラと会話することができるようになった。


 シンタロウがサクラと会話している時、周りからはぶつぶつと独り言をつぶやいて、外からの呼びかけを無視しているように見えていたという。心配した両親はシンタロウを度々精神科に連れて行ったがどこにも異常は見られないといわれるばかりだった。シンタロウは医者の前でサクラと会話しなかった。そして両親にもサクラのことを言うことはなかった。秘密にしていたわけではなく特別なことだと思っていなかっただけだった。


 それが特別なことだとシンタロウ自身が認識したのは、キンダーの同級生の誰かがシンタロウに向かって「誰とお話ししているの?」と聞いた時だった。シンタロウは「自分の中のサクラだよ、君もするでしょ?」と返したら「そんなことしないよ。パパもママも誰もしてないよ。」と言われ、シンタロウは驚いた。周りのみんなに聞いて回ると誰一人そんなことをしていないことを知った。それから他人にサクラと話していることを感づかれないように注意するようになり、そしてシンタロウは成長とともにより一層、サクラと会話することが増えていった。


 サクラはPAの蓄積データを介してシンタロウの外部の情報を得ているようだった。一度、シンタロウの体の制御がサクラに移ったことがあった。シンタロウが昼寝をしている時に意識だけが起きて体が眠っている状態を経験した。それは後で調べて「体外離脱」の状態だったことを知った。その際に、サクラの意識の方が先に体を動かした。その日はシンタロウの意識があいまいなまま、夜寝るまでサクラがシンタロウとして一日を過ごした。朝起きるとシンタロウが体の制御をとる状態に戻っていた。その後、シンタロウとサクラは試行錯誤を試みたが、サクラが体を制御することは一度もできなかった。サクラは自分が体の制御を行ったことがよほど楽しかったようで、シンタロウに何度もあの時の経験を語り、その話の最後はいつも、「またあの体験がしたいな」という言葉で締めくくられた。


 サクラはシンタロウと異なる個性を持っている。サクラはシンタロウに比べて注意深く几帳面で忍耐強い。その分、シンタロウよりも知識が豊富で勘が鋭かった。シンタロウがサクラに何かを訪ねることが多くなり、その度にサクラは口癖のように「そんなことも知らないの?」と言い、大人ぶって話し始めた。そして、成長とともに二人は独自の思考を構築していき、やがてPAを介して得られる蓄積データはサクラにとっては違和感があるものになっていた。その問題をなんとか解決できないだろうかと考えていたシンタロウとサクラはPAについて調べていた時に偶然にもAFAにたどり着いた。シンタロウは伯父のケンジに頼み込んでS=T3を買ってもらった。ケンジはPAに興味を持つシンタロウを喜ばしく思い、すぐにS=T3のライセンスを送ってやった。


 それから2人はサクラの納得がいくまでAFAのパラメータチューニングを行い続けた。ようやくサクラにとって違和感のない蓄積データが追加できるようになったのはシンタロウが13歳になるころだった。シンタロウの蓄積データを本体としてサクラの個別の蓄積データは差分で保持した。そのうち。常時覚醒しているサクラとPAの区別があいまいになり、次第にシンタロウはPAをサクラと呼ぶようになっていった。


 シンタロウはアジア系で身長が5.4フィートしかなく、さらに四六時中PAとコネクションを張ったままだったのでクラスの女子の誰からも相手にされなかった。ハイスクールに上がってもそれは変わらなかった。同じようにプロセッサやPA、テクノロジーに傾倒する友人とつるむようになり、仲間と旧ネット上の情報にアクセスするようになっていた。




 旧ネットとは数十年前に、開発されたばかりの未成熟なAIが生成した練度の低い情報で溢れてしまった通信網だった。生成AIが登場し始めた頃のかなり早い段階から「AIが無尽蔵に生成するバリデーションが難しいコンテンツはネットの価値を著しく低下させる」と警告していたビックテックの一社が、自社が保持する衛星通信網を旧ネットから切断して独自にネットを再構築し始めた。これに端を発してネットの分断が始まった。衛星と高高度を長期間運航可能なドローン間の無線通信網で構築された、もう一つのネットである「ウィーブリンク」はAIが生成する練度の低いコンテンツを徹底的に排除することで情報ソースの質を上げ、ネットの主流となっていった。


 一般層が自己判断でコンテンツの信頼を図るのが難しくなる頃、旧ネットの設備を運営する一般通信業者はサードアイアン社などの性風俗や違法性の高い広告やコンテンツを提供する事業者に設備を売り渡して旧ネット事業から次第に撤退していった。そして、旧ネットの通信事業者はサードアイアン社を筆頭に、合法と非合法の中間を生業とする企業に完全に入れ替わり、新しい経済圏を形成していった。情報チャネルで好感度の高いタレントを使い、いかにも清廉潔白を装うような企業広告を流し続けるサードアイアン社は、過去の薄暗いイメージを払拭することに成功し、今では優良企業の一つに数えられている。その実、旧ネットは相変わらずサードアイアン社が出資を行うグループ企業を中心に通信設備が運用されている。そして、練度の低い情報を隠れ蓑に行政や司法の目を欺き続け、違法性の高いコンテンツで収益を得ている。そして旧ネットは、それらに関連する犯罪の温床となっていた。シンタロウたちがよくアクセスしていたのは旧ネット上でテクノロジーに関するオカルトめいた情報から、最新PAのハッキング方法などの有用な情報まで様々な情報を発信する「メシミニア」を名乗るカルト集団が運営するセブンスというチャネルだった。




 シンタロウは夏休み前半の2週間ほどケンジ夫妻と過ごした。ケンジ夫妻は夏休みの残りを東アジアにある国で過ごすという。観光産業が盛んなその国はシンタロウの父方のルーツだった。ケンジ夫妻が旅行の間、シンタロウは家の掃除や宅配物の受け取りを行うという条件で、ロサンゼルスの家を好きに使って過ごしてよいと言われていた。シンタロウはケンジの家を拠点にいくつかバイトをすることを計画していた。


 ケンジ夫妻が旅行に出かける少し前、シンタロウとケンジはエミュレータ稼働開始に合わせて組まれたヴィシュヌプロジェクトの特集を食い入るように見入っていた。シンタロウもケンジもこの世界が仮想現実だという考え方に基本的に賛同していたので、ヴィシュヌプロジェクトに大きな関心を寄せている。もしこの世界が仮想現実だとしたら、サクラを人間としてこの世界に連れ出すことはできないだろか、とシンタロウは考えていた。「またあの体験がしたいな」というサクラの言葉を聞くたびにシンタロウは胸が苦しんだ。それと同時にサクラがシンタロウから切り離なされて、自立した人間になったらどうなるだろうかと空想を巡らせることもあった。知性的で優等生気質のサクラはきっとクラスメイトの女子と同じように旧ネットにアクセスして喜んでいるような俺に興味なんか持たないかもしれないなとシンタロウは考えていた。


 以前一度だけ、外部思考用のプロセッサに蓄積データをダンプして、VRSでサクラと会ったことがある。サクラの持つ蓄積データから自動生成したサクラの容姿は、サクラのイメージそのままだった。VRSで出会ったサクラは東洋人特有の黒い髪を背中まで伸ばしていた。切れ長の黒い目は自分と同じ色なのに神秘的に感じられた。シンタロウはその姿にしばらく目を奪われた。それ以来、サクラの容姿データはその時のものを使うようにしている。それまでサクラのイメージに使っていたのは、サードアイアン社のPAアドオンに付属していたピンク色の髪をしたアニメーションのキャラだった。


 VRSでサクラと少しだけ会話をした。蓄積データを共有できないサクラはよそよそしい気がして、14歳になったばかりのシンタロウには取り繕うだけの余裕もなく、すぐにいたたまれなくなりイグジットした。それでもいつか、今度は現実世界でもう一度サクラと会いたいという思いは日増しに強くなっていった。


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