第一章・最後
彼女は下を向き、ベースの出す音の波に揺られているようだった。鼻に抜けるコーヒーの匂いが、何処となく恥ずかしかった。僕は煙を手掴むような気持ちになり、どさくさにコーヒーを飲んだ。羞恥心を打ち消すべく、新たな羞恥の種を撒く。何故かは分からない。ただ、人間が今も尚、エデンの住人である事に、何の矛盾も見出せなかった。そうきっと何かの間違いだ。動物的本能とでも言うべき物が、エデン追放の幻覚を起こさせているのだ。黒い壁に貼り付けられた映画のポスターが、僕をそんな気持ちにさせた。僕らは暫くぼーっとしていた。傍らに彼女の事を思いつつ、そうしている時間が流れて行く。その時間が、まるで綿密に織り込まれた布きれが、暫くの弄りにより無秩序と化すかの如くなるように、彼女は再び話し始めた。
「井坂さんの短編って、あまり知られてないよね」
「ああ、確かに短編と長編だと、いわゆる井坂文学とは少し違いますからね…」
「マスコミも受賞作…特に今回の受賞なんて報じてないからね…」
「あの短編は、なかなか素晴らしかったです…」
「うん…」
あの時、受賞した作品は、確か「晩秋」だったと思う。なんせ半世紀も前のことだ、覚えていない。賞というものに対して、通念との差異や交わりに、一種興奮していた時期である。
「そうだ、師匠にあってみない?」
彼女は言った。
「先生にですか…?」
「うん…師匠はいつも、坂の上のアトリエにいるから…今度案内するね」
「案内までしてっ…」
「気にしないで、あなたみたいな学生さんとなら、直ぐに気が合うと思う…」
「あの、坂の上のアトリエって、因みに何処にあるのですか?」
「鎌倉だよ」
「鎌倉ですか…」
「うん、鎌倉の扇ヶ谷…」
「相模湾が見えそうですね」
「うん、見えるよ、ものすごく好く見える。そうだ、30日って空いてる?」
「30…空いてたと思います…」
「じゃあ決まりだ!30日に、大仏の前で…」
「あぁ、いや、本当に良いのですか?」
「良いよ、良いよ。30日ね。」
「では…お言葉に甘えて…?」
「そんなに畏まらなくても、いいよ」
僕等はいつしか、そんな約束をした。
時計は23時19分を指していた。もうそんな時間かと、僕は瞬間的に張り紙になった様な、息の詰まる気持ちになった。何故かは、分からない。ふと顔を上げると、井坂さんは、機械のようにサインを続けていた。
時分の花を
まことの花と知る心が
真実の花に
なお遠ざかる心なり
シャンパンで酔った井坂さんの口元から、そんな世阿弥の言葉が聞こえてきた。
「君は、何の音楽を聴くの?」
彼女は言った。
「演歌と最近の音楽以外なら、なんでも…」
「ハイカルチャー主義的な感じ?」
「いや、そこまででは…音楽に関しては、友人の影響が大きいです…」
「へぇ、なるほど…珍しいね、親とかじゃないんだ…」
「ええ、はい。友人が作曲をしてまして、かなりのオタクなんです。」
「オタクなんだ!」
「偶に僕も何を言っているのか、分からなくなります。特にクラシックに関しては…」
「ああ、クラシックね。」
「この前は、メンゲルベルクのベートーベンの第九について、色々と言ってましたね。」
「メンゲルベルクの…あの最後ね。」
「知ってるんですか?」
「うん、最後に遅くなる奴でしょ?」
「ああ、はい。」
「アバドの…あれは…ソニー盤かな?あれよりは、良いと思う…」
「友人も同じこと言ってました。」
「そうなんだ。」
「そう言えば、君の名前を訊いてなかったね」
「ああ、坂口圭悟です」
「佐久間結奈です」
「坂口圭悟かあ…。名前からして、文学者だね!」
「ああ、そうですかね…?」
僕は彼女と話した後、父から頼まれた本を買った。僕は瞼が重くなるのを感じた。ふと目を開けると、猛者の会の精鋭たちは、いつの間にか読書会を始めていた。サイン本の山は、随分と削られてきていた。時計の針は、午前3時05分を指していた。井坂さんはぐったりと寝てしまっていた。彼の隣では、カフェ・ブリコラージュの社長である、思想家の藤井直樹さんと文学者の安藤洋子さんが、「小説」について議論していた。どうやら、ネット配信は、最後まで行うらしい。猛者たちは、議論に耳を傾けている。深夜という事を除けば、心地の良い場所だった。僕は眠気を心地よさと誤魔化しながら、2人の議論を聞いた。
私は、またペンをノートに置いた。何も弾けないし、書けない。尽きることのない様な自己規制に、疲れてきた。ふと、さっきの坂口くんとの待ち合わせ時間を考え始めた。午前10時で良いかも知れない。その答えは、思ったよりも早く出てしまった。深呼吸をした。その時、自分が何時間も水分をとっていないことに気が付いた。私は水と紅茶を飲んだ。
スマホを取り出し、音楽をかけることにした。流れてきたのは、キース・ジャレッドのKöln concertでのPart Ⅱ - Bだった。固い結び目が、ほどけていく。そんな気がした。私は曲を止め、ノートに書き殴り始めた。書き終えるとボールペンのインクが滲んでいた。私の手には、沈静な濃さが付着していた。
午前6時をまわった。ネット配信は、どうやら終わるようだ。こちらも、ようやく落ち着く時が来た。猛者の会の精鋭たちは、数を少なくしていた。井坂さんたちの話の後、僕等は時計を抱えた藤井さんを囲んで、写真を撮った。その写真は、ネットに載せられてた。僕等は熱に浮かされ、朝の空気に触れようとしていた。出口に差し掛かる処で、彼女が僕のもとへ駆けつけてきた。
「8月30日の午前10時、鎌倉大仏前で。その予定で宜しくね!」
「ああ、はい。では、それで…。」
僕は駅まで少し速歩で向かった。晩夏の事を人は永遠に引きずりたがる。昨夜は、引きずるには、少し重すぎる夜だった。列車は千葉を目指した。今日は、長い昼寝をしなければならない。降り注ぐ街の埃は、どこか懐かしかった。
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