第一部「MEMORYS」第一章


 そのテールライトの反射。その微かな断片が、今、僕がいる世間というものを刻々と映し出している。そんな気がした。陽光の憩う淡い月が目の前に聳えていた。会場の賑やかさなど、疾うに忘れてしまった。ボールペンを手にしたは良いが、詩を書くことを止めていた。僕は一度では飽き足らず、幾度か瞬きをして、最後はゆっくりと試みる。そうやって、空間を弄ると、僕は手を動かした。少し速くノートの上を滑走させた。


ガラス窓の様な、何かだと思う


ビルの様な、何かだと思う


信号のような、何かもある


赤い光を毀し毀しこぼしこぼし運んでいる


箱に押し込んでいるのか


そろそろ溢れそうだ


僕はそんな詩を書いた。詩を書き終わって、辺りを見渡した。サイン本の山は、まだ尽きる事は無い。井坂さんは個人へのサインからネットショップ販売用の書籍へのサインに移った。刹那に筆する彼の手は、時折2023年を2025年と滑走させて仕舞う。「ああ、またやってしまった…」井坂さんの声は大きかった。「声が大きいのは…ぼくの家系は耳が遠いんですよ…」

井坂さんはネット配信のコメントに応えた。「なんかねえ、父も母も遠いんだよ…

声が大きいことを、やんや、やんや言う人があるけど、少し耳が遠いんだと思って下さいね、お願いします」 彼は冗談交じりにそう言った。相も変わらず、僕はコーヒーを飲み、視線をはためかせた。

すると、彼女はまどろんでいた。

僕はスマホを取り出し、エリック・クラプトンのBell bottom bruceを聴き始めた。イヤホンに高らかと響くギターは、遂に僕を連れ去ってしまった。

 僕は目を覚ました。彼女も目が覚めたようだ。耳には、初期ステレオの響きに似た拍手の音が押し寄せている。僕は吐息に劣りそうな声量で「さあ」と言って、ボールペンを持つ手に力を入れた。ただ、何の迷いもなくノートの上を舞うボールペンを見ていると、少しの罪悪が僕を襲った。風に敏感になった利き手が、此方を見詰めている。僕はふっと思ったのだ。こんなにも自分を見ることが今までにあったのかと。目線は指の隙間を通り、折り返す。微かでありながら力強い潮騒を伴って僕の裡へと向かう。判然としているという事も無く、風が小道を吹き抜ける様に、今現在の僕へと抜けた。道や葉に棲んでいた砂埃や何処から来たのかも計り知れない証。僕は其れ等を纏い小道を抜けた先にある大通りの手前に立ち竦んでいるようだった。そのことを詩にしようと思い再びペンを持った。僕の独り言も井坂さん程ではないが、大きかったようだ。彼女はいつの間にか、何処かに行っていたようで、戻ってきた次いでか、僕に話し掛けてきた。

「詩を作っているのですか?」


「ああ、ええ」  

あの様な場で、詩を書こうとする人間は、少なくないのが常である。着想を紙に落とさぬとも、詩的な言葉を感受の縮小写像しゅくしょうしゃぞうとして想起し、己は只浸っている。僕にわざわざそのことを訊ねなくても、無意識の盗作をすれば済む事である。しかし、とやかく叫き散らす世界では、それは完全なる悪なのだと煙たがられる。まあ無理もない。突然、僕は恥ずかしい思いがした。何に対してか、先ずは只、恥ずかしいとだけ思っていた。よくよく思い返せば、僕の裡に犇めくあの様な理屈が、もはや病的なのかも知れなかった。

 「さっき君が音楽か何かに浸っている時に、ノートを見たの…勝手に見てごめんなさい…でもすごく良かった…うん、良い詩でしたよ…」彼女は思いのほか快活に、そよ風のような声で言った。


「ああ、ありがとうございます…」


「私も歌曲をつくろうと思ってね…でもベースを持っていても、宝の持ち腐れよ…」彼女は何処か慣れた口調で弁じてた。


「歌曲をですか…」


「うん、私も詩を書いているの…でもあまり良いとは思えないもの許り…」


「 嵐の夜

  風の強い夜

  雨は涙の水溜まりを残した

  私はいつまでも泣いていた

  なぜ独りにしたの

  教えてよ 行くべき道を… 」

「その歌詞ばかり、

 私の頭の中に浮かぶの…」


僕は何と言えば良いのか、何ひとつ浮かばなかった。浮かばない許りではない。僕の高慢さは知らず識らずに湧き上がり、水面の泡が破裂した。そのしぶきが、僕の理性をかろうじて保たせていた。人間の人間に対する嫉妬。其れがこれほどまでに、不意に訪れるものなのかと、僕は驚いた。彼女の目は、確かに此方を向いている。時折、下を向くかと思えば、忽ち僕の方へ戻される。なぜ、そこまで純粋な美しさを披露できるのだろうか。だが、その事ばかり気にかけている訳では無かった。僕は彼女がさっき書いていた、Get Backという言葉の意味が分かったような気がした。しかし、同時に彼女だけの持つ感覚ではないとも、さとった。


「あなたも詩を…」

僕は惚けたような口調で彼女に応えた。


「ああ、うん…エドガール・モランの本を参考にしたことさえあったのよ…」


僕は、彼女が記していたビートルズの

Get Backの歌詞が、今、自分の裡で整理されたような気がした。彼女の盲目を打ち砕くために、僕は自分の得たきずきを伝える必要があると思った。伝えたかった、どうしても…。僕は身勝手な行動を認識し、遂に試みるに至った。


「Get Back where you once belonged…この言葉は、あなたが今思っていることなのではないですか?…そう言う意味で、あなたの詩は、と言ってもさっき少し見えて仕舞って、あっ、その切はこちらこそ申し訳ありません…でも、そう言う意味であなたの詩は素敵です…」僕は自分が今、どんなに無責任であるかを恥じた。少し顔が火照てり、すぐに寒気がした。

彼女はただ微笑していた。


「ありがとう…君も師匠みたいな事を言うのね…」


「師匠さんですか…?」


「うん、昔は大学の教授だったけど、今はアカデミックな場から外れて活動しているの…文学者よ…彼、歩くのが速いから、先生って声を掛けないと、私の前を素通りしてしまうの…」


「僕の言うことは、その人には及びませんよ…僕に文学的素養なんて…」


「先生曰く、それは意匠の問題だってことですよ…文学だって文学だけで語れるものじゃない筈だもん…」


「ああ、文学だけでは語れない、ですか…なるほど…」

僕は彼女の言ったことに、半ば蒼ざめた。だだっ広い原に、自分という存在が沈みゆくような、そんな感覚が僕を暫く襲い続けた。












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