青い暁暗

ToKi

第一部「MEMORYS」第一章

僕にも、多分人並みに高い壁を無意味に形成し、時に粉砕したり、しなかったり。そんな人生を送る時期があるのかも知れない。          

              坂口圭悟


 白昼夢を見ていた。半ば朦朧とする認識の只中で、町の音を聴いた。僕は両耳に人差し指と中指とをそっと置き、その細勁な旋律を辿った。ツクツクボウシがニ.三匹共鳴し、葉のゆれる音が充満する中、僕は誰も通らない時刻、交差路の垣根の手前で立ち止まったままでいる。駅まで歩く。駅を取り巻くビルには学習塾が顔を揃え、コンビニと古い感じの良いカフェとケーキ屋があった。利便性は良いが寂しい感じもする。僕が学生の頃は、それがあるべき姿であり、それこそ青春なのだ!そう思う人も少なくなかった。その時から53年経って、僕は駅の東口に立っている。毀れ陽こぼれびのゆらぐホームに立っていたあの娘。今はどうしているのだろう。僕は、胸の辺りに重りが加わるのが分かった。それと共に、僕の心配など要らないのではないかと思った。

 あの年は、やけに暑かった。あの年から数年、徐々に暑くなっていった。僕は千葉県内の高校に通う2年生だった。僕はあの日、駅のホームで鞄を下に置き、ベッドの上で底に投げ入れたニ・三冊の本を読んでいた。販売機で一番安いお茶を買った。お茶で本が濡れないようにビニール袋でペットボトルを包んだ。

僕はふと時計に目をやる。頻繁にやる。列車が来るまで、まだ15分ほどあった。

ポー、ポー…

豆腐屋の軽トラックが西口を通った。

久々にその音を耳にして、なんだか開けた草原にでもいるような気分になった。

圭悟は辺りを見回していた。そう言う癖が昔からあった。

僕の他に、4人ほどの高校生が、ホームにいたと思う。僕はこれから五反田に行く。それは、2023年8月25日、カフェ・ブリコラージュにて行われるサイン会へ行くのだ。千葉駅から電車に乗り継ぎ、山手線に乗り換え五反田駅に着いた。

 僕はよく時間について考えていた。しかし、過去・現在・未来とあって、漠然と流れていく時間というものは、なぜ無くてはならなかったのだろう。中学生のころ、理科の先生と授業前の空き時間によく話していた。その時、先生はバートランド・ラッセルの5分前仮説について話してくれた。それが、時間について考える切っ掛けである。全ては何々時間前に、今まであったようにつくられた。そのことを知り、当時の僕は大いに興奮した。

なるほど、それが時間の始まりか…。

しかし、時間は何故存在することになったのか分からない。時計の示す時間と、例えば我々めいめいが体感する時間。あるいはオペラ劇中の時間発展。此れ等は、同じかと言われれば、そうではない。偶々本屋に立ち寄って、ある物理学者の本を手に取ったことがある。それには時間など存在しない!と堂々と書いているのだ。なるほど、時間は存在しないのか。この説は僕の気に入ったが、僕は少し腑に落ちなかった。

ただ、この人が言っていることには、一理あるとも思っていた。それが真実かも知れないと思っていた。僕はそのことについて、悩み続けていたのだ。

 僕は五反田駅からソニー通りに出た。

ラーメン屋や定食屋の並ぶビルの腹部を眺めると、cafe bricolageの文字があった。あの時代は、道に障害物走よろしくな珍物が犇めいていた。少し時間を間違えば人混みは著しかったかも知れない。僕は人混みが苦手だった。遊園地などごもっともだ。あれは多分40代の中頃だったと思う。僕はふっと、ある考えに至った。人には承認が必要だ。承認が無ければ批判が無ければ、そう簡単には進めない。そういうものが見られない時代、人は生き急ぐ。承認を渇望する人々の世は、滑稽な肉体の動きさえ出来ない。だから、人混みが苦手だった。歩くことさえ、立ち止まって木立を眺める事さえ侭ならない。それを僕は、王子の新しい服効果と命名した。もとより、人混みにめり込むと憂うつになる性格ゆえ、どうにもこうにも出来ないのだが、僕は詩を書く。詩を書くときは、すこぶる健全なのである。しかし、あまりに高慢な肉々しさを棚引かせていると、それは人間が利己的に振る舞うことに他ならない。何かに対して寛容であったり、感受、感動したこと、その先が無く、途絶えてしまう事がある。だから青い王子に、「お前は裸やぞ」と言える自分が必要である。そう、僕は思った。詩を書くこと。その効果効能などと言う現行人の喜ぶ俗物性などとは、関与していない事を此処に示し、改めて詩を書くことで、自分では潔しとしない事に志向することが出来ると、僕は思う。そうしている。もっとも、高校生の頃の僕には、そんな考えは微塵も無かった。

 エレベーターで登り僕は中に這入った。ここがブリコラージュか…。中に這入ると祝Epiphany発売記念とある。Epiphanyとは小説家、井坂利哉さんの書いたSF作品である。井坂さんと言えば、この世には真理がある筈だと、盲目的にそれを追い求める主人公を宮沢賢治のよだかの星を基に執筆した「悲しきよだか」やギリシャ神話の向日葵を基にしたディストピアSF「おひさまの瞼」、そしてヒューゴ賞を受賞した、「砂漠の人」は誰しもが認める傑作である。砂漠の人の第四章は、とても印象深い。主人公はある日、仕事終わりに美術館を訪れる。すると、彼はマグリットの絵のある方へ吸い込まれていった。彼はマグリットの1935年の作品である、「The Human condition」の前で気を失ってしまう。そこから、主人公は途方もない時間を生きることになる。今とは何か、人間、有限とは何かを突き詰めた名作だ。僕の中ではそうである。しかし、世間では、単にヒューゴ賞受賞の名作以外の唱い言葉がない。あの頃はそんなものだった。

 午後8時を過ぎ、サイン会が始まった。

椅子は置いていない、僕は床に座った。

座ってコーヒーを飲んだ。600mlのやつだ。皆、床に座って本を読むかスマホに目をやっている。僕は少し後へ傾いた。

すると何かに触れた。僕が後を振り向くと、女性がいた。僕の背中は、その女性の背中に触れたのだった。

「どうも、すいません」とだけ僕は言った。

「いえいえ、こちらこそ」と、その女性も応えた。彼女は、何かを書いていた。メモ帳に丁寧に、又、押し付ける程の力を一文字・一文字に込めて書いている。初めは質疑応答の際の井坂さんへの質問かと思った。しかし、それにしては少々長い。細々と書かれた文字は読み辛く、何のことやらだが、Get Backという文字だけが読み取れた。それが、その時彼女のメモ帳にあった唯一の英語であり、読み取れるものだった。彼女の横にはベースが置かれていた。彼女はメモ帳を右手で鎖していた。指が退かされ、Get Backに続く文章が見えた。


Get back, get back

Get back to where you once belonged


それはビートルズのGet Backにある歌詞の断片だった。彼女は時折、頬杖をつき、その手で時々、膝にリズムを打った。ぎこちない指の動き。あんな指の動きでベースが弾けるのかと、僕は疑問に思った。僕の同級生に川端浩紀かわばたひろきという男がいる。そいつも、あまた楽器を操るが、それを長らく見てきた僕が言うのである。だから何だ、素人の眼など当てにならない。まさにその通りだろう。しかし、彼女の場合は、楽器に拒まれているかのようだ。楽器との対峙。しかし、その対峙は互いの不理解の為だったのかも知れない。対峙というものは、殆ど幻想に過ぎない。空を飛び、地面の物理的感触も感じていれば、対峙など幻想だと言うことは、容易に分かる。彼女が、そうかは分からない。若しかしたら、裡の音を出す術が無いという呪縛の下、言葉によって紡ぎ出す才に志向しているのかも知れない。彼女の裡は、若しかしたら音楽家よりも豊潤な旋律で満たされているのかも知れない。僕は半ば無責任な憶測に身を投じていた。彼女の瞳はただメモ帳の一カ所を見続ける。そうして、時折首を右へ少し傾けては、優しく否応なく瞬きを繰り返していた。

コーヒーを飲みながら視線を泳がせ、ときどき僕は彼女に目をやっていた。

この本は僕の主著である…。そう井坂さんがインタビューに応えているのが聞こえてきた。井坂さんにサインを貰いに行かなくては…。僕は立ち上がり、軽薄な立ち眩みの中で辺りを見回し、列に並んだ。列と言っても、10人くらいである。

なぜ僕が彼のサイン会に来たのかと言えば、彼はこのEpiphanyを以て文章を書くことから離れると言うのである。しばらくは、書かない。そう言っていた。それならと思い、やって来たのだ。このEpiphanyは、あの頃の僕にとってのお守り本だった。

いつも、制服のポケットに入れていた。

御陰でボロボロになってしまった。幸い中とサインの部分は、綺麗なままだった。

 一人また一人と、サインがされていく。そして僕は井坂さんの前まで来た。

「このメッセージを書いたりしたのは、君?」と、井坂さんは僕に訊いた。

僕はカフェの入り口にある著者へのメッセージ用紙、とは言ってもB5サイズのコピー用紙だが、それにメッセージを書いたのだ。僕は、「ああ、はい」とだけ応えた。

「もしかして、受験生だったりする?」


「いいえ、2年生です」


「因みに文理どちらを受けるつもりなの?」


「文系です」


「それなら大丈夫だ、世界史とかは、カタカナを覚えるだけだからね」


「はあ…」


僕と彼は、そんなやりとりをして、サインに入った。


「名前も書きますか?」と彼は言った。

井坂さんのサインで名前が書いて貰えるならと思い、お願いした。


「はい…坂口圭悟です…」


「坂口圭悟君ね…」

彼は流れるようにサインをした。苗字は辛くも分かるが、下は蛇の様である。


「はい、どうぞ…」


「ありがとうございます…」

井坂さんは、その様なやりとりを一人ひとりに試みていた。


元いた場所に戻ろうとすると、一人の参加者が段ボールに "猛者の会" と書いて、掲げていた。僕はその人に、猛者の会について、訊いた。彼が言うには、翌朝まで、このカフェで、あれこれ話すなり、呑むなりするらしい。僕は親から門限を言われてないので、連絡だけ入れておいた。

父からは、カフェの方が書籍が安いから、ついでに一冊買ってきてくれと言われたので、承知した。猛者の会に参加しよう。そう思い、僕はまた床に腰を下ろした。さっきの女性も、まだ何やら書いている。僕は又、彼女の後にそっと座った。誰かに向かってではないが、僕は軽く会釈をした。向かいのビルの窓には車のテールライトの微かな反射が覗えた。


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