第十節 おはよう、眠り姫。
私の発した一言によって、私たちの理念は一時的に無効化される。
ねむちゃんの周りを泳ぐサメはそのまま。私は抵抗する手段を失い、彼女はサメに指示を出す手段を失った。
互いに理念が使えない今、私たちはいつも通りだ。
息が詰まる。思っていることを、この際全部吐き出してしまえ。私は、ねむちゃんを助けたいから縺れたんだ。
「私を頼ってよ、ねむちゃん! 私のことを親友とまでは思ってなくても……私たちは友達でしょ! 頼って良いよ。迷惑かけても良いよ! それが友達でしょ?」
だから、知りたい。私は、彼女が何に悩んでいたのかを知りたい。
「私でよかったら、教えてほしい。何に悩んでいたのか」
私の言葉に、ねむちゃんはずっと黙っている。おそらく、葛藤しているのだろう。相談には勇気がいる。ある程度の信頼関係がいる。私は、ただ待つことしかできない。互いに何も言わなくなり、静かな時間が流れ始める。
「私は、ただやりたいことができればよかった。やりたいことが、やりたいときに、やりたいだけできる。それだけでよかったんだ」
無限のようにも感じられた沈黙が壊れた。
「そっか……」
「寝坊だって、本当はしたくなかったけど……やりたいことは多いせいで……」
いろんな意見があるだろう。この世界は、やりたいことだけをやって生きていける世界ではない。むしろ、我慢を強いられる世界だ。
でも、だからこそ、「やりたいことをできる」ということは、確かな「幸せ」だ。それに、私たちはまだ高校生だ。たくさん間違えて、たくさん学べば良い。
「……いいんじゃないかな」
私が言う言葉は決まっていた。
「今は今しかないんだし、どうせ
「でも……」
それでも、それを許さない人はいるだろう。そんなの仕方がない。何をするにしても、それを批判する人はいつだっている。その人たちを意識していたら、この世界では何をすることもできない。
「良いんだよ、ねむちゃん。批判する人はいるだろうけど、絶対味方のほうが多いから。それに、私がいる。それで、十分じゃないかな……?」
そこまで言ってから、急に恥ずかしさが込み上げてきて、彼女から目をそらす。今更だとは思うけれど、流石に自意識過剰すぎる発言だった気がする。
「そうだね、確かに。夏織が味方なら、怖いものはないや」
笑いながら、彼女はそう言った。思わず顔を上げると、ねむちゃんと目が合った。
「ありがとう、夏織」
彼女は笑う。その笑顔は、いつもの彼女のものだった。
「どういたしまして、ねむちゃん」
ねむちゃんの周りを泳ぐサメが消え、森のような空間も崩壊を始める。
「これは……」
「羽田野の縺れが解消されたために、心郷が消失しているんだ。」
白澤の言葉で実感する。そうか。終わったんだ。
私は、ねむちゃんを助けることができた。
「達成感に浸りたい気持ちはわかるが、今はこらえてくれ。まずは、この空間から脱出するぞ……
白澤が理念を発動した。気が付けば、私たちは見知った学校の前に来ていた。崩れていたはずだと言おうとした私に、白澤は「心郷が解消されたことで街が元の姿に戻っただけ」と説明してくれた。
「お疲れ様、星野。よくやってくれたよ」
「ううん、ありがとう、白澤。あなたがいなかったら、私はねむちゃんを助けられなかった」
「そんなことはない。ほとんど、君は理念を使ってないだろう……それじゃあ、僕は帰るとするよ。報告書をまとめなきゃいけないんだ」
それだけ言って、白澤は私たちから離れていく。
「あ、星野の理念は、心郷解消と同時に消去しておいたから安心してくれ」
こちらを向かずにそう言うと、彼はポケットから無線機を出して、どこかと通信を始めた。きっと、迎えを頼んでいるのだろう。
「あのー、夏織。ごめんね。心配かけたし、迷惑もかけちゃって」
「本当にそうだよ~。まったく、何度サメに襲われたことか……」
「……」
ねむちゃんが急に下を向いて黙ってしまう。縺れが解消されたとは言え、少々軽口を言い過ぎてしまったのだろうか。少し反省をする。
「そういえば……さ」
ねむちゃんが、しどろもどろに話し始める。
「あの空間で、夏織は私のことを親友って言ってくれたけど……」
ねむちゃんの言葉を黙って聞く。次の言葉がなかなか紡がれないと思っていると、ねむちゃんは顔を上げ、真っ赤になりながら続きを話す。
「私も! 夏織を、親友だと、お、思ってるからっ!」
緊張のせいか、はたまた恥ずかしさのせいか。ところどころ声を上ずらせながら、彼女はそう言ってくれた。重い話かと身構えた私がバカみたいだった。
きっと、私はマヌケな顔をしていただろう。呆気にとられて、開いた口が塞がらなかった。でも自然と、私は笑っていた。
「ちょ、なんで笑ってるの! 馬鹿にしてる!?」
「あははっ、してないしてない。ただ嬉しくてさぁ。なにこれ、愛の告白か何か? 私たち、両想いじゃん」
彼女の「親友宣言」に、私は嬉しさを感じ、同時になんだか照れくさかった。照れくささを紛らわすために、軽い冗談を言ってみる。
二人顔を見合わせ、もう一度笑う。きっと、私たちなら大丈夫。彼女がどんなに悩んで塞ぎ込んで、夜に閉じ籠っても私が助ける。
だって、彼女の眠りは、私が覚ますから。
――七月十七日 十四時三十八分 『夢言水郷』解消
被害者、行方不明者は共に確認できず。
マージナル 霜桜 雪奈 @Nix-0420
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