第九節 夢言水郷 二

「私は寝てない、起きてるよ。夏織」


「いや、寝てるよ。寝言は寝ていってもらえる?」


 二匹のサメが、こちらに向かって泳ぎだす。迫りくるサメに対して、星野は出会ったころとは違って顔色一つ変えない。星野の眼は、羽田野をまっすぐに見つめていた。


『空飛ぶサメは、この世にいない』


 彼女の言葉に、サメは消滅する。


「そうなんだ……夏織も縺れたんだ……」


 その様を見せつけられた羽田野は、特に臆する様子も見せずに呟く。新たにサメを作り出すと、自分を守るように周りを泳がせる。


「ねむちゃんはさ、何に悩んでたの? そんなになるまで、なんで相談してくれなかったの?」


「……別に、ただのわがままだよ。誰に相談したって、そう言われるに決まってる」


「なんでそうやって決めつけるの? 相談してみないとわからないよ!」


「相談して裏切られるのが怖いんだよ! 勇気を出して相談して、それはわがままだって言われるのが怖いんだよ!」


 星野の言葉に、羽田野が声を荒げる。本人も、本当は相談したかっただろう。口にすれば楽になる、相談すれば楽になる。その通りだと思う。

 だがもし、悩みを相談したとして、相手に「たいしたことのない悩み」などと言われれば、もう二度と悩みを口にすることはできなくなるだろう。それ故に、相談には勇気と覚悟が必要になる。


 悩みに優劣はない。すべての悩みは、等しく理解されるべきであり、解消されるべきである。そう、僕は考える。


 星野から離れた位置に移動し、二人の様子を見守る。


 僕はもう、理念を発動しない。ここから先、

僕が彼女たちの間に割って入ることはない。本来の羽田野を知らない僕には、決して彼女の気持ちを汲み取ることはできないから。




「ねむちゃん……」


 羽田野の叫びを聞いた私は、どうすることもできなかった。自分から相談してなんて言っておきながら、実際に吐露されれば何もできない。自分は、無力だった。

 私が、ねむちゃんを助けたいと願ったのに。


「夏織はさ……なんで、わかってくれないの?」


 わかってる。ねむちゃんの気持ちはわかってるよ。でも、それも私が勝手に思っているだけだ。ねむちゃんがどうして縺れたのか、何に悩んでいたのか、私は一度も聞いたことがないから。私が勝手に、わかった気になっているだけだ。


「多くの人に迷惑をかけてるし……こんなの間違ってるって思ってるからだよ」


「そっか……じゃあ、夏織は、私の敵だね」


「っ……違う!」


 私たちを照らしていた太陽が雲に隠れる。嫌な風が吹き始め、木々がざわめく。まるで夜が来たかのように、周囲が闇に満たされた。


「夏織の理念が何か知らないけど、多分、『否定する力』だと思うから……」


「違う、私の力は『言ったことを本当にする力』だよ!」


「じゃあ、なんで否定しかしないの?」


 ねむちゃんに言われて、私は自分が理念を使った時を思い出す。


 ――私は、様子を変えた朝海区を否定した


 ――私は、空を泳ぐサメを否定した


 ――私は、現代にいる騎士を否定しようとした


 確かに私は、この力を否定にしか使っていない。


「それは……」


「夏織って、いつも私を否定するよね」


 確かに、二言目にはねむちゃんを否定することを口にしていた気がする。今になって、自覚して後悔しても遅い気がする。謝ろうにも、謝れない。


 青い光が、周囲を漂う。目を向ければ、それはホタルイカだった。闇に包まれた森を泳ぐ青い光は、幻想的な景色を作り出していた。


 私は、自分が思っていたよりも弱かった。


 自分を大切にできない人は、他人を大切にすることはできない。わかってる。わかっているとも。でもそれは、ねむちゃんを助けられない理由にはならない。


 ……肯定は、一方の否定だ。だから、私はまた否定する。いつものねむちゃんを肯定する代わりに、彷徨者のねむちゃんを否定する。


「『闇よ、明けろ』」


 闇が明け、漂うホタルイカはそのままに、太陽が再び私たちを照らす。


「ねむちゃん!」


 そして、ねむちゃんに向かって叫ぶ。自分を責めてる暇があるのか、私。そんなの、全部終わってからで良いだろ!無力なら、無力なりに足掻け!


「ねむちゃんは助けはいらないっていった。でも、私は助けたい! ねむちゃんが何に悩んでいたのかは知らないけど、今のねむちゃんは辛そうだから。私は、ねむちゃんを親友だって思ってるから。だから、私は……彷徨者のねむちゃんを否定する!」


 この言葉が、ねむちゃんに届きますように。親友への想いと祈りを込めて。


幻実トゥルース! 『私とねむちゃんの理念シンシアは一時的に無力化される』!」

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