第一章 眠り姫と白馬の姫

第一節 現実と理想

「まっずい、遅刻だ~!」


 朝を迎えた部屋に大きな声が響く。彼女の手にしたスマホに表示された時間は、八時ちょうど。学校の朝礼は八時十分から。


 階段を駆け下りて、洗面台の前に立つ。肩の上で綺麗に切り揃えられた黒髪は好き勝手に荒れて、眼は未だに眠気を帯びている。水で顔を洗い、その冷たさで眠気を覚ます。髪は、水で濡らして櫛を通すだけで終了。


「ちょっと音夢。朝ごはん……」


「食べてる時間ないって!」


 ドアから覗くようにして現れたお母さんをのけるように、私は洗面所を後にする。

急いで部屋に戻ると、パジャマを脱ぎ捨てて制服に着替える。せっかく作ってくれた朝食を食べていけないことに、毎朝申し訳ないと思うけれど、時間がないのだから仕方がない。


「いってきます!」


 家の脇に止めてある自転車に飛び乗り、時間を確認する。この時点で、起床から四分経過。


「いける、間に合う!」


 自転車をこぎ出した彼女は、笑みを浮かべた。学校までの道のりは、自転車でおよそ三分。しかしそれは、アプリが算出した理論値に過ぎない。


「それで、羽田野。遅刻の理由を聞かせてもらおうか」


 結論として、彼女は遅刻した。朝礼後、彼女は職員室に呼び出され、今は面談室で事情聴取を受けている。毎度のことで慣れたが、遅刻した理由を説明するのはいつでも億劫だ。


「今日は赤信号が多くてですねぇ~」


「お、今までにない新しい言い訳だな。先生嬉しいぞー」


 先生が、手に持っていた紙に何かを書いて、彼女に向ける。


羽田野音夢うたのねむ、連続遅刻73日目。記録更新だ」


 紙にはカレンダーが印刷されており、今日までの欄全てに赤で『遅刻』と書いてあった。


「やりましたね」


「あぁ、本当にやっている」


 紙をバインダーにはさんで、呆れた様に溜息をつく。


「明日から、遅刻しないようにな」


「安心してください。もう遅刻はしないので!」


 彼女は胸を張り、笑顔で宣言する。


「ぜひそうしてくれ。……もう、教室に戻っていいぞ」


 先生はもう一度溜息をついてから、面談室を出て行った。


 面談室に、しばしの静寂が訪れる。


「……起きれないんだから、仕方ないじゃん」


 ぽつりと呟いた言葉が、静かな面会室に消えていく。


 〇

「今日も寝坊とか、昨日の夜何してたの?」


 一時間目の授業中、隣の席に座っている夏織かおりが問いかけてくる。彼女とは、小学生以来の付き合いだ。私の親友といっても良いだろう。


 綺麗な黒髪を胸のあたりまで伸ばし、顔もスタイルも良い。さらには運動も勉強もできるという、まさに高嶺の花。彼女とすれ違った男子が、皆彼女の事を見ていることを、私は知っている。本当に、私とは正反対の人間だ。


「新作のゲーム」


 黒板の文字をノートに写しながら答える。


「あちゃ~……そりゃあ寝坊するわ」


 しかしながら、彼女の内面は高嶺の花とはかけ離れたものだ。私の偏見だが、高嶺の花と言えば、もっとこう、まじめで清楚で可憐、といったイメージが強い。しかし、どうにも彼女は楽観的でノリが軽く、お世辞にも真面目とは言えない。でも、そのおかげで私は夏織とすぐ仲良くなることができた。


「本当に傑作だったよ。一日でクリアしてしまった……」


「それは良かったね。でも、寝坊した言い訳にはならないよ?」


「私は悪くない。何をするにも、時間が足りない世界が悪い」


「開き直るな~? まったく、反省しないねぇ、ねむちゃんは」


 彼女もまた、黒板を写しながら返事をする。視線だけを、夏織の方に向ける。夏織の横顔は、女子の私でも見惚れるくらい整っている。口を閉じていれば、ただの可憐な少女なのに。


「遅刻記録更新中かぁ。流石、『眠り姫』のねむちゃんだね」


 私は、その遅刻の多さゆえに、クラスでは『眠り姫』というあだ名で呼ばれている。姫と呼ばれていることに少し優越を感じるものの、素直には喜べない。


「王子様のキスがなきゃ起きれません~」


「じゃあ、私がキスしてあげよっか?」


 いたずらに笑う夏織の顔に、少しドキッとする。危うく惚れるところだった。


「いりません、自分で起きれます~」


「そっか~、残念」


 そっぽを向き、目線だけを夏織に送る。当の彼女は、何事もなかったかのように教科書を読んでいた。


 〇

「時間が無限にあったらいいのに。そしたら、遅刻とか絶対ないじゃん?」


「はいはい、そうだねぇ」


 お昼休み、私は夏織と一緒に屋上でお弁当を食べていた。空は快晴、昼寝をするには最高の陽気だ。


「いや、本気で本当に。時間に管理されてる感じしない?」


「それは確かに。むしろ、時間なんか無くていい」


「でしょでしょ!」


「でもまぁ、こんな話してても寝坊は治らないよ。ねむちゃん」


 おにぎりを口に運びながら、呆れた目線を送る夏織に、私は指を振った。


「夏織は夢がないなぁ、夢が」


「『眠り姫』が夢見すぎなだけじゃないですか~?」


「寝てません、起きてますぅ」


 何気なく発した言葉に、私は盛大なカウンターを受けてしまう。海を泳ぐ魚も、空を舞う蝶も、時間に囚われず伸び伸びと生きている。時間に縛られているのは、地球上で人間くらいだろう。


「あーあ、時間が無限にあれば……あぁ!」


「ボヤキからの急な大声やめなぁ~? で、どしたよ」


 私は、一呼吸おいて、夏織の質問に答える。


「この世界が、夢の世界なら良いんじゃない?」


 この世界が夢の中なら、なんだってできる。瞬間移動もできるし、時間を戻すことだって。そうしたら、寝坊することも遅刻することも無いだろう。時間に追われることもない、まさに理想の世界。


「ほうほう、なるほど? 寝言は寝て言え、とはよく言ったものだね」


「寝言じゃありません、本気です~」


「本気ならなおさら。そんな事考えているなら、少しは寝坊しないための方法でも考えたら?」


 夏織は、食べ終わったお弁当を片付け始める。彼女の意見に少し賛同してしまった私は、何も言い返せなくなってしまう。


 お昼休み終了の予鈴が鳴る。私と夏織は、荷物をまとめて教室に戻った。


 国語を受けながら、私は寝坊しない方法を考える。春はあけぼの。平安時代に時間なんてあったのかな。いや、春はあけぼのってことは、時間の概念は存在するのか。にしても、あけぼのねぇ。明け方なんて起きてない……


「あっ……そうだ!」


 先生に怒られた。


 〇

「よし、今日はオールだぁ!」


 寝なければ、寝坊することは無い。もはや極論ともいえる手段を、私はとることにした。エナジードリンクは、帰り際コンビニで買った。


 ゲームをしたり、動画を見たりしていれば、時間は自然と経っていく。眠くなればエナジードリンクを飲んだり、シャワーを浴びたりする。体には悪いだろうが、遅刻して先生に怒られるくらいなら、この程度なんということもない。


 その結果、翌日私は寝坊しなかった。


「まってくれ、羽田野が遅刻していないだと?」


 先生は、一周回って困惑していた。


 昨日まで、ほぼ毎日遅刻していた私が、朝礼に間に合っていることが、そんなにも不思議だろうか。私だって、やればできるのだ。まったく、失礼にも程がある。


 午前の科目を難なくこなしていると、気づいたころには既にお昼になっていた。


「まさか、ねむちゃんが朝礼に間に合うとは」


「ふっふっふ……私が、いつまでも遅刻すると思うなよ?」


「今日は雪でも降るのかなぁ」


「誰も彼も、失礼過ぎない……?」


 いつも通り屋上で、夏織と昼食を食べる。昨日と違い、空には暗雲が立ち込めていた。それでも、今は夏だし雪なんて降るはずがない。


 何事もないと思っていた徹夜の影響は、午後の授業になってから現れた。


「つまりは……あー、羽田野起きろ~」


「あっ、はい!」


 寝不足は、明らかに私の体を蝕んでいた。不意に訪れる睡魔。授業中と言うこともあり、対抗手段であるエナドリも使えない。乗り越えるには、気合あるのみだ。


 授業終了のチャイムが鳴り、帰りのホームルームも終わった。私は、夏織と共に帰路についた。


「だめだ……眠すぎる……」


「ちゃんと寝なって。まったく徹夜で遅刻回避とか、諸刃の剣にも程があるでしょ」


「だって、自分でも驚くくらい朝に弱いんだよ」


 夕焼けに染まる帰り道は、微睡みで霞んでいる。道の脇に、普段から使っているコンビニが見えてきた。


「あ、エナドリ買うから、コンビニよって良い?」


「バカなんか? ねむちゃんはバカなんか?」


「いや、今日も徹夜するから……」


「バカだなぁ……今日は寝なよ。流石に二日連続は体に響くし」


 そう言って、夏織は私がコンビニによることを許してくれなかった。そこまで食い下がることもなく、私はしぶしぶ、夏織の言うことに従うことにした。


「ただいまぁ」


 家について扉を開けると、何やら食欲を刺激される良い匂いがした。


「お帰り、音夢。晩御飯できてるから、食べちゃいな」


「そうするぅ……」


 洗面所で手を洗ってからリビングに入れば、机の上に美味しそうなご飯が並んでいる。今日は、ピーマンの肉詰めか。


「ご飯食べたら、お風呂入りなさいよ」


「はーい……いただきます」


 ご飯を食べて、お風呂に入って、私はすぐに寝ることにした。早く寝れば、その分長く眠っていられる。だから、寝坊はしないはずだ。




 枕もとで、スマホのアラームが鳴っている。窓の外では鳥がさえずり、カーテンの隙間からは朝日が覗いている。アラームを止めて、スマホを覗き込めば、時間は八時五分。


「遅刻……だ」


 今日は、騒ぐ気力も起きなかった。本当に、驚くほど朝に弱い。


「また、先生に怒られる。……嫌だな」


 胸に靄がかかったようで、気持ちが沈む。なんだか、息苦しいような気もしてきた。


 その日は、親に頭が痛いだとか嘘をついて、学校を休むことにした。

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