第12話
話を先に進めよう。
京都へと戻った久坂は長州藩が江戸へ撤退する事を知ったのだが、その段階で下関に居た時以来に会っていなかった伊藤博文と再会する。
そんな中で松蔭の実弟である玉木文之進を紹介され親交を深める事となる久坂は、奇しくも決別したと言っても良い長州と再び関わり合う機会を持つ事になったのである。
そんな長州藩への復帰を決めた久坂なのだが、それは京都での活動の結果報告を行うと共に長州勢に手を携えて幕府を倒そうという意向を伝える為の事だった。
『禁門の変』での戦いにて志士の中には離脱した者もいる。
そんな彼らを取りまとめ元に戻ると久坂は決めていたのだ。
(しかしながら、吉田だけは最後まで京に残る事となったのだが……)
そんな事もあり彼は公家である西園寺と面会をする。
この時既に京都での活躍ぶりやこれから起きる出来事の顛末を西園寺から聞いた久坂は、その考えを改める様になる事となる。
(なんせ時すでに遅しである)
そんな長州の現実を知った久坂は「先の戦いは私の負けだった」と発言をして公家への道を志す事にしたのだ……。
禁門の変から約4年という時間が流れ11月(1864年12月)
いよいよ長州は下関に上陸する事になるのだが……。
しかし『8月に発した勅命』により始まった江戸幕府の崩壊は、14代将軍・徳川家茂が京都から戻る頃には既に終わっていた。
将軍不在となった新政府軍に各地方の藩を纏めるだけの力は無く幕府軍が江戸を明け渡すまでになる。
(つまり長州藩も負けたと言う事である)
そんな情勢を見て久坂と共に長州藩に復帰をした前原一誠や玉木文之進は愕然とし、違う道を歩もうと言う事となるのだ。
彼らは『保守派』……すなわち薩摩藩や土佐藩といった派閥の手を借りて政府に反対をするという道を選んだ。
(ちなみに井上聞多は主戦派につき政府寄りであった長州藩を離れ薩摩藩と共に京都へ上り朝廷にも働きかける事になった)
長州の久坂たちはそんな彼らを止めようとしたのだが上手く行かなかったようだ……。
だがしかし、そんな久坂にも長州藩からの帰還命令が下る事になるのだ。
(薩長同盟が成立した後の話である)
それでもなお抗おうとする久坂の思いは重く彼はこの時『国事犯』に指定されて再び京の地を踏む事は叶わぬ身となる事に成るのだ。
松蔭先生の言葉は何処へ……?
『桜田門外の変』とは嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に江戸・桜田門外の水戸藩邸において水戸藩浪士達が、同志の振りをして暗殺を計画した事件である。
久坂の師匠松蔭の遺書『留魂録』において
「私の志す所を書きたるこの手紙がもし京にありたりとせば、私は此の一通のみで是を為さんと思い定むるなり。もし他にあらば、是れのみにて推して可ならんかと思索す。」
と記されているがこれは松蔭が『桜田門外の変』の少し後に送られた手紙で、それを受け時の徳川15代将軍・慶喜は江戸へ浪士たちの引き入れを防ぐために旅宿への放火を行わせた事で後の死者を出す結果に繋がる事に成ったとされている事件である。
この江戸で起きた『桜田門外の変』による被害者の数はおよそ60人とされているが、長州藩によって起こされた事件とは言え久坂の思想も加わり多くの犠牲者を出す結果となってしまったのだが……。
(詳しくはまた別の話とするとして)
そんな安政の大獄の後となるのだが、久坂が再び京の地を踏む事になったのは時の大老である井伊直弼の暗殺を目的とした浪士たちの襲撃に因ってだった。
前日に投宿していた京の旅館においてその襲撃を受けた久坂たちは、その人物が『水戸浪士』と知ると共に幕閣に大老暗殺を知らせるべく京を離れる事とした訳である。
この時既に彼の『儒学』という師匠松蔭の思想を元にした新たなる思想による活動は行われていたのだが、まさかこれがきっかけで長州と関わりを持つ事に成るとは思いもしなかったであろう……。
『安政の大獄』とは久坂の考え方を危険と判断した井伊直弼によって起こされた政治改革の事である。
具体的な事は後程語る事とするが、ともかくその大獄の結果起きる「尊王攘夷」を唱える者に対する取り締まりと言う名の虐殺(安政の大獄)により時の将軍・徳川家茂まで続く長い鎖国へと繋がる事に成る大きな出来事となっている。
そして『安政の大獄』の後、京において久坂や桂小五郎等が率いる浪士たちが蜂起を起こすのは久坂が東京へと向かう5年後の事である。
それが起きるまで幕末は終わりを告げる事はなかったのだ……。
(詳しくはまた別の話とするとして)
そんな久坂も残念ながら明治政府の命令により江戸を離れる事となるがその時の手紙にこう記されている。
「更に我が長州へ与せよとの命の下りし際は、詩文を作りて返し且つ送らんずる也」
さてこの長州にての行動の結果なのだが『尊王攘夷』を強引に押し進めようとする幕府の命令に対して藩内から反発され始めていた久坂は江戸では行動を起こす事ができずにいたのだが……。
そこで長州藩下関城代を務める毛利元昭からの励ましの手紙により久坂は再びやる気を取り戻す事に成ったようだ。
長州藩によるこの発言こそが、後の世に有名になる『防長回天』の始まりとされる事になるのだが……それを知る者はどの位いただろうか……?
(薩長同盟の内容はともかくとして)
実際にどういった出来事だったのかは『防長回天史記』などにも記載があり書かれているようだが……いずれ機会があれば語るとしようと思う。
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