第10話
『吉田稔麿』とは、長州藩士として『池田屋事件』や『禁門の変』で活躍した人物。
(少し補足するとこの池田屋事件で、木戸孝允ら長州勢が官軍と戦う事ができなくなるきっかけを作っていた人物でもある)
そして後世では伊藤博文・井上馨と並ぶ所謂『反幕府勢力』の中心人物となる人物であるのだが……。
(彼もまた自身の信念と想いのもと行動していたと言う人物ではあるのだが、幕府側に立ったようにみえる行動を見せていたりもする。
何故かと言えば松蔭と同様に禁門の戦いの際に会津藩と示し合わせ長州の兵を参戦させない策を講じていたのだ)
(桂小五郎も似たような行動をとっているのであるが……)
そんな吉田であったが何故この時期に久坂に近付いたかを語る事にしようと思う)
「君には尊王攘夷派の志士としての才能が有りそうだ。それに私が率いている志士達には無いカリスマ性も感じるし是非とも協力して貰いたいのだが……」
吉田は久坂に対し強い関心を寄せていたのだが……。
「しかし私は今、長州の者達を率いて尊王攘夷の為に行動しているのです」
そんな言葉に彼はこう思ったのである。
(松蔭先生の弟子とはいえ長州藩の者では無い彼を正式に迎え入れるのは難しいか……)
そこで吉田は久坂にこう言うのであった。
「薩摩藩と長州藩が敵対しあっている事は知っていよう」
それを聞いた久坂は言うのである。
「ほう、ならば賊を討ち味方に取り入れるのみですな……」
(これを聞いた吉田は流石だと思うべきなのであろう)
そんな2人に変化が起こるのは同じ日からとなる。
1つ目は長州藩でも勤皇思想が高まりを見せた事なのだが……。
2つ目の変化とは松陰が池田屋で大けがを負ったとの知らせを受けた事である。
「助ける者が誰一人いなかったのでしょうか?」
「酷いものじゃな」
と言う吉田の言葉に、久坂は憤慨しながら叫ぶのである。
「そんな藩に先は無いでしょうな!」
そんな怒りを見せる彼に吉田は言うのだ……。
(賊・会津も討つべき敵かと疑っていたのだから志士としては仕方もあるまい)
「君がそんな事をしてはならん」
(吉田の言葉に久坂はどこかやり切れない思いのままではあったが……)
それは仕方ないのであろうと彼自身が気持ちを落ち着かせその場を去って行ったのだが。
そんな久坂に吉田は言うのだ。
「もしや長州の力となってくれるつもりがあったのか?」
そんな言葉に彼は答えるのだった。
「そんな事考えるまでも無いですぞ」と。
そしていよいよ『禁門の変』となるが、これはもう詳細を語る迄も無いで有ろう。
勤皇と言う題目の下に挙兵した長州藩に対し、倒幕を掲げる長州は朝廷への不敬を理由に敵対する事となったのだから。
京都に居を構えていた諸藩も直ぐに兵を上げる事を決める事となる……。
その結果が明治維新へと繋がる訳だが、その全てを変えた要因となったと言えるのがこの『禁門の変』なのでは無かろうか。
そう考えると、この長州藩こそが今の日本の歴史を動かしているとも言えるのではなかろうか……。
(語るとすればまだあるので最後に語って締めるとするか)
そんな勤皇を唱える吉田率いる長州藩は賊軍を称されている。
しかし久坂だけは違っていたと言えるだろう……
(後に彼は薩摩藩に対して長州討伐の大将になるのだから皮肉なものなのだな)
そんな吉田は久坂に言う。
「我々長州藩は賊軍と決まっているからな」
(そう話しつつ、吉田は自分の『志』を語っていく)
「尊王攘夷を果たす事以外に我らが進むべき道は無いのだ」
彼はその言葉を残し、東帰の途に就いたとされている……。
幕末期には実際に彼がどの様に思われていたかを知る者は少なかったが……。
そんな池田屋騒動によって長州藩は『逆賊』と呼ばれ倒幕派に定められる。
(別働隊の『四国連合艦隊』の出動に呼応した形で会津などの諸藩も幕府支持を明確に表明したため当然とも言えるのだが……)
そんな情勢の中、長州藩は朝廷を味方に引き込み倒幕派との決戦に持ち込む事になるのだが、その先鋒として戦う事を決める事となった。
更に言えば池田屋事件を機に幕府から長州討伐の命が下される事になるのだが、長州は長州藩のみではない。
まず京に集結する薩摩藩・会津藩へと追討令が届き戦いへと身を投じる事となるのだ。
久坂はこの戦いを機に戦友である『前原一誠』の家の居候となり京都で暮らす事となっていく。
(それが後にあの世まで続く腐れ縁になるのだから何が起こるかわからない)
『四国連合艦隊』とは、幕末期に反幕府勢力の一つとされる外国の力を借りた『天誅』と称して殺された者達を慰霊するためにイギリスなど各国へ派遣をしたのだが……。
その移動の途中で長崎に立ち寄り松門四天王とまで呼ばれるようになるあの『高杉晋作』が前原邸で一時過ごしていたりするのだ。
この時に久坂は、後に松下村塾の同志として生涯の仲間となる彼・高杉晋作と知り合う事となり現在に至る……。
後に久坂は彼と共に、あの松下村塾の仲間や共に学んだ者の中でも特に松蔭の考え方に近しい者たちで『正義派』と呼ばれる人物達と志同じく長州藩を支えていく事になるのだがその話はまた別の機会にでも語るとしよう)
***
***
禁門の変から8年後の文久3年、彼は朝廷の命を受け大老・徳川慶喜の護衛として長州から京へと向かう事となる。
奇しくもそれは松蔭が斬られたのと同時期なのだが……これは偶然なのか必然だったのかは分からない。
ただ分かる事は、こうして長州勢は朝廷の上に位置する大老の護衛として行動を共にしていく事となるのだった。
そんな『徳川慶喜』、公には病を理由に一線を退いているとされているのだが実は京に潜伏していた志士らとの連絡役や何かあれば彼らを守る為の護衛などを務めていたりする。
この事は極秘とされ幕閣の中でも限られた者のみにしか知らされてはいないのだとか……
これはいつ何が起きるかわからない、朝廷の1人を護ると言う名目で長州勢が守りを固めているに過ぎない。
そんな長州と幕府の関係を強化する『会津戦争』が起こってしまうが、戦いの前に久坂は藩士に向けて手紙を書き残している。
『前原一誠』とは、倒幕を掲げていた長州藩の俗論派・前原一誠一派の中核的人物の一人であり、後の外務大臣などで有名な『伊藤博文』に将来を期待され門人として召し抱えられる事となる人物で有るのだが……。
松蔭門下であった久坂は当然と言うほどに伊藤と交流があったのだ。
そして久坂からの手紙にはこう書かれているのだった。
(内容要約)
1長州藩は朝廷を守る事を第一として行動する。
2倒幕派の邪魔だてするつもりはない
3むしろ会津との戦いにおいては共に戦う事を良しとする というような内容であったそうな……。
そんな手紙を前原に送った後、久坂は下関に居たのだが長崎に戻った彼の元に伊藤博文からの呼び出しの手紙が届いたのだと言う。
「先生を助けると言う我らの行動を理解してくれたか……」
久坂はその手紙を読んだ瞬間にそう呟き涙を流したそうだ。
そんな久坂は朝廷より長州の同盟を受ける様になったのを受けて、前原からの返事や他藩主宛ての手紙に文末を
「ご好意有り難く頂戴しました」
と締める事となったのだ。
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