第8話

『横井小楠』とは、江戸時代の本草学者であり蘭学の教育にも大きく貢献している人物でもある。

その生涯は後世に多大な影響を残す事に成るのだがそれに関しては次項で……。(ここより先は前に説明した内容をささっとまとめた物で有る事を先に述べておこう)

文久元年7月27日『王政復古』によって大老に返り咲いた井伊直弼により彼の下で動く事になるのが、明治維新後に歴史を大きく動かしていく『伊藤博文』である。

彼は先見性と柔軟さを持った人物でもあったと言う……。

井伊直弼は急速に自らの足場を固めながら世界の動きに目を向けるようになるのである。

(ロシア大使・プチャーチンの長崎訪問をきっかけに始まったクリミア戦争(1853-1856)終結まで続く事になるのだが、この事実が示す事は時代のうねりを人々に示す事にも繋がって行く……)

「条約調印交渉を始めますかな」

井伊直弼はそういうと調印の為にイギリスへ赴く事になった。

(安政の大獄が仕掛けられる事を知っていての決断なのである)

そんな彼の留守中、長崎では英国軍艦・艦長のジャーディン・マセソンが上陸し警備にあたる事に成るのだった。

(彼は幕府海軍に手痛い目に合わされたのだが、松陰達はそんな相手と互角に戦う事に成るのである)

元治元年(1865年)2月27日『王政復古の大号令』が出されてから5ヶ月後になる。

京の都で暗躍する不穏な動きは表へと再び姿を現す。

しかしそんな事には一切関心が無いように『彼』はただただ騒ぎの中心へ突っ込んでいくのであった。

(幕府による大弾圧によって安政の大獄の苦難を味わった長州藩)

「よもやまたその様な事態になろうとは……」

そんな嘆きの声すら聞こえてくるそんな時期に、彼こと高杉晋作は再びやってくるのだった。

「此度こそは必ず成功させるのだ」

松陰が再び知る彼の行動とは……一体?

『軍艦』がここにどう関わってくるかと言うと、それはとても簡単な事なのである。

「攘夷か開国かと常に騒がれている我が国とロシアの関係なのですが、良い機会なので落とし所を模索しようではないですか」

そう言いつつロシアに抱き込んでいた井伊はプチャーチンの乗る英国艦・ジョン・スターリングの長崎寄港を日本に伝えるべく日米和親条約を締結する事により日本の譲歩を引き出そうとする試みに出るのだった。

この物語『歴史の裏側の人達』の初期に名前が出ていた

『酒井忠清』とは幕末から明治時代と長い間続く日本の老中であり天保の改革で有名な人物である。

(ちなみにこの方は薩摩藩にも深い関わりが有るのだが、それに関してはこの後に触れていきたいと思う)

その島津斉彬や西郷隆盛らが属する派閥の長として幕末維新期を担って行く人物でもある(他にも有名な人物として桂小五郎と言う人物がいてこれも重要なキャラクターなのだが今回は割愛させていただきたいと思う。

話を戻して……。

日本の後進的な部分を感じていたロシアだが、日本よりも産業の成長性や豊かさを知る機会としてある時期に出会う事になるのだ。そう大老井伊直弼がガラス工場で職人を招集して作ったとされる『長崎製壜所』の建設時であると言えばその規模もイメージしやすいだろうか?

(因みにこの時期の日本にフランスからエゾオオカミと言うオオカミが持ち込まれた為か『狼』が絡んでくる話が多い……。まぁこれだけ『幕末』と言う言葉と無関係な事を書けているのだから致し方ないのであろうが)

因みに日本製の瓶詰ワインを輸出させるなど、良質で高価な品を常に買い続ける関係ではあった為日露外交は悪くは無かったのだ。

(長期的には反故になっていたのではあるが貿易や友好国であった事実に変わり無いのであるから……。)

『島津斉彬』とは幕末から明治期にかけての長州藩の人物なのだが、西郷隆盛と同じく幕府を倒して新政府による中央集権化を狙う勢力の一員で有り『藩籍奉還』つまりは藩主・領主などの大名をもたなくすという制度を実施させた人でもある。

(また彼は江戸幕府にも多額の献金をしており将軍徳川慶喜に政権を返すことを納得させていた……)

こうしてロシアが日本の先進的な文化に触れる機会が出来た時に起きたのは安政の大獄で有る。

幕府内の情勢は悪化し井伊直弼を暗殺しようとする動きが芽生えて行くのだが、『王政復古の大号令』により急展開を迎えた時代を背景に攘夷と言う大義名分を掲げ多くの幕閣達を罰していくのであった。

(とは言えこの年に決定打になる事は全く起きていないのだが)

『西郷隆盛』とは幕末から明治期にかけての薩摩藩の武士であり薩摩を代表する志士にして指導者的位置づけの人物であった。

大義名分の為なら、何をしても良いという彼の発想も井伊政権によって安政の大獄へと発展していくが『尊王攘夷』・『開国和親』は相反する物と言う認識を持っていた西郷にとっては受け入れにくい考えな事も事実だった。

(しかしそれは薩摩藩にこそ言えた事ではある)

藩内の派閥の争いが激しくなっていくのだが、鹿児島における『島津久光派』と西郷隆盛派との対立が激化していく。

元治元年(1864年)8月19日薩長同盟が成立し幕府を中心とした勢力を倒そうと動きを見せた……かに見えたのだが、その行動は薩摩だけではなかった。

「これで薩摩と共に幕府を倒す事になりましょうぞ」

そんな言葉を吐いたのは『長州藩』は倒幕の機会を今か今かと待っていたからなのだ。

(しかし京都に進軍する途中『八月十八日の政変』により武力討伐される事と成ってしまうのであるが……)

「十月十四日には将軍継嗣問題でも対立しあわねばならなくなりましょう」

その言葉を発した人物は、長州藩にとって彼の心を大きく揺れ動かす一言となる『伊藤博文』だ。

『尊王攘夷』とは徳川幕府中心の政治システムを否定し天皇親政により新しい政治の仕組みへと移行すると言う考え方なのだが……。

『倒幕』こそがそれを実現する近道であり『大老井伊直弼暗殺による事件』を引き起こせばそれを実現する事も可能だとも思っていたようだ。

(だがこの事件の当日に薩摩藩が同盟相手である会津藩を通し、越前藩を中心とした『長州藩への武力攻撃命令』を井伊の首を手土産に突き付けたことにより大事件に発展する事は無かったのだが……)

長州藩は鳥羽・伏見の戦いの後、四藩を率いて江戸まで進軍したが返り討ちにあってしまい幕府を裏切った事で朝廷から征討軍が派遣される事となるのである。

(また徳川慶喜もこの行為に対して、『敵対行為を働いた場合には出兵』と言う寛大な処置をとっていたにもかかわらず無理難題を押し付けて来ようとしていた幕府を見限り征討軍派遣を決断するに至る)

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