第6話
「困ったのう……」
そんな事を考えていた慶喜ではあったが、このままでは国内に会津藩・庄内藩等の反乱まで起きてしまいそうになっているのも事実だった……
そんな折に起こったのが慶篤公暗殺事件である。
(つまり幕府には抑え込む事が出来なくなってきたと言う証でもあるのだっただろう)
その様な情勢の中、京都では幕府が朝廷によって追放されてしまった『幕末の七雄』とも言われる大老が率いていた薩摩藩・越前藩主・水戸藩・土佐藩・肥後藩等を中心とした公武合体派による政局安定の為に結成されたものとされる『会津候同盟』が結成される事になったのだった。
そして大老井伊直弼殺害で中断されていた条約が正式に再開される。
(この条約は、黒船来航の際に結ばれたもので日米和親条約と賠償金等二,五〇〇万ドル(当時での凡そ9兆5千億円)を支払った後のものだったとされているが……そもそもこの契約は不平等な条約であり政治体制を変えねば解決するのは難しい状況になっていたから起きた事件とも言える。)
そんな混乱の中
『桜田門外の変』へと繋がるのだ……。
「『井伊大老』に『水戸』を加えた『尊王攘夷派』は勤王派と朝廷側より徹底的に攻撃された結果、少数派と成って行くのである。それはどう言う事かわかるな」
「はい、佐幕派も我らの味方では無くなってしまった訳でありませよね(元々佐幕派の方だった藩ではあるが)」
そう小栗忠順が言う通りで幕府に仕える武家であり佐幕派であった尊王攘夷派には味方がいない状況となってしまった訳である。
(『天狗党』のリーダー格であった宇都宮城の北にある喜連川の領主が謹慎中であったと言う説があるのだが……朝廷側である西郷隆盛との関係はよくわからないとされてる)
「このままいけば、このままでは我々日本は外国の手に落ちてしまうかもしれない……」
そんな恐怖感にも駆られながら一橋慶喜と共に桜田門外にて散る事になるのだ……。
こうして幕府は瓦解していき時代は激動期へと突入して行く事になる。
将軍に就任した大老徳川家達は、新しき世を作る為に尽力して行く事となるのだがその事を良しとしない者達は勿論存在する……。
そんな彼らの思想や行動などを纏めようと奮闘している一人の女性がいたと言われている(実は女性ではないという説もあるのだがその辺のところは割愛させていただく)
彼の名前は吉田松陰その人である。
そんな動乱期に日本はある選択をせまられようとしていたのだった……。
「それは『開国』と『鎖国』のどちらですか?」
と質問され答えるのだが……その解答は複数あって収拾がつかないのでその辺を深く書く事は出来ないのだが、今のところの方針では欧米列強等と言った国々に対抗していく為に先ずは国から変えないとならないと言う思いからの意見である。
(右を向いても左を向いても戦ばかりしていてはキリが無くいつまでたっても何も変わらないじゃないか)
「しかし『開国』と言いますが、異人共が牛耳っている中貿易などできる訳がないでは無いですか」
そう反対する山田顕義元氏(幕末期は批判論者として活躍する)に彼はこう答える。
「諸外国に勝手に自分の国の政治や政策を決められたくは無いのです」
そんな松陰の言葉に反応を示したのは同じ長州藩士でありながら幕府を倒そうと尊王攘夷運動に動いていた高杉晋作であった。
「では、海軍でも造って海外を追い出せばよいのではないですか」
そんな晋作の疑問にも彼はこう答えるのだった。
「我が国の技術力でその様な事を行うにはどれだけの年月がかかる事か……しかもそれが追い出せたとしても世界の海に出られるようになった訳ではございませんでしょう。私の案としては鎖国を止めて開国して行くべきだと考えています」
そんな松陰の回答に
「反対ですな!!」
と反論する長州藩士達もいたのである。
そんな事があって、結局彼は攘夷派が決起した『四境戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)』によって捕らわれてしまうのである。
(今現在は、この事が原因となって開国論者が主流と成ったとする説やそうでは無いとする説や色々あるのだけれどもこの辺の話を書いていくのは難しいので今回は割愛させていただく)
捕縛される前日の7月17日、彼が暗殺された日の夜である。
『この様な事に成るのなら……もっと他に何かする事があったのではないでしょうか……』
そんな彼の言葉を残して……。
そして尊王攘夷運動に参加していた長州藩はその後朝敵として処罰され長州征伐が行われる事に成るのだがそれがまたとても複雑な状況で収拾がつかない形となってしまう事となるのである。
「ではどうすれば良いというですか?」
そんな幕府方である土佐藩士・後藤象二郎の言葉に彼は答えるのだった。
「長州藩(私達)で外国の領事館を焼き払おうとしましたように……外圧から我が国を守ろうとしただけです」
1月26日(太陽暦1872年3月1日)、『四境戦争』が勃発したのである。
(ちなみに『四境戦争』だがこれも色々な見方が有るのでこれもまた割愛させていただく)
この『四境戦争』以後、長州藩は朝敵と呼ばれる事になるが主に吉田松陰と関わりが深かった派閥とは実質戦線離脱をして行く事になってしまうのである。
彼はこう締めくくった。『もしもあの時もっと違う対応をしていたら……今のこの日本は大きく変わっていたかもしれない……』と そんな戦争の火種となって行った松陰だったが生涯を通しての事であった。
「やはり彼は素晴らしい人材であったな」
「そうか?わしには違う様な気がするがのう……」
そんな話を呟く一人の男性と、その男に答えるもう一人の男がいた……。
幕末期の重要人物であの坂本龍馬の師でもあり暗殺された有名な攘夷思想家『桂小五郎』と今をときめく日本初の政党内閣『大老井伊直弼』の二人である。(ここには登場しないが木戸孝允と大久保利通は同志でもある)
「貴方にとっては違うかもしれませんが、あの人がいなかったら明治維新も叶わなかったかもしれないのですからね」
そんな桂の言葉を耳にしつつも大老井伊直弼は言葉を返す。
「確かに……しかしあの者達とは共に国を動かしていく事は出来なかっただろうさ」
そんな風に呟く井伊ではあったが内心では認めていたのである。松陰と言う人間をだが……。
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