第5話

(暗殺された幕末四大人物の最期は歴史の真実として伝わっている事はまず無いと言える 憶測でしかないと付け足しておく)

そんな混乱の中で幕府に逆らう者を葬る事を宣言した一橋派ではあったが、井伊直弼の死を切っ掛けに荒れ果てていく事となるのだが

その様な流れがある最中に桜田門外の変が起こったとされている。

その事からすると、何もせずに傍観していて一橋派への弾圧や幕末の動乱の中で西郷隆盛らが追い込まれて行った事は事実だとしても

「世直しの為に桜田門外で死ぬ事が名誉だ」

等と考えていた井伊直弼の死が一橋派にとっては大打撃として残った可能性は高いであろう……。

そうした流れの中、お家取り潰しにより水戸から去らなければ成らない徳川斉昭・徳川慶篤ら水戸藩は幕末の動乱の中で改革を実行して行く為に奔走する事となるのだが

(それが攘夷政策であるとするならば開国後の日本の状況も納得がいかないものでも無い訳であるが……)

それらは今の段階からしてみると後の話で書こうと考えているのだ

(嫌な予感がするのだがその様な事を書いている余裕は無さそうだから書かないです!!多分……いや、必ず!なのでよろしくお願いします!!)

そんな時に斉昭は西郷隆盛や由利公正らによって水戸藩に呼び戻された。

「なぜ某(それがし)が呼び戻されねばならぬのだ?」

「水戸藩には、新兵器・水戸学(天狗党)があるではないか」

等と言って呼び戻したともされるが真実は誰にもわからない。

そんな斉昭の下に集まったのが江戸に残していた小栗忠順と藤田東湖であるのだが彼らが計画した西郷隆盛らが企てた大老井伊直弼暗殺計画は早々に頓挫する事となる。

「ふむ、これは簡単には行かぬ様だな。」

「左様ですな、ですがやらなければ成らぬ事なのでは?」

「確かにそうですな」

その様な事を会話しながら計画は再び練り直しを行うと決定されて行くのである。

そして

小栗忠順の独壇場とも言わる『江戸城桜田門外の変』が起ころうとしていたのだがそれが起きた場合『江戸無血開城』と言う事もあり得る事へと思い至った小栗忠順は諦めざる得ない状況に陥っていた……。

その後も紆余曲折があり、安政の五ヵ国条約・横浜開港問題・アヘン戦争などを目の当たりにしてきた斉昭は蟄居閉門(謹慎の事)となる。

「くそが!」

と憤りを隠し切れない斉昭であった……。

文久元年(1861年)になり謹慎中の身ではあるが朝廷より隠居が許され藩主の座を嫡男である慶篤へと譲渡する事となった。

こうして慶応元年(1865年)には江戸幕府第15代征夷大将軍に就任し薩長土肥の雄と共に倒幕運動への足掛かりとして動き始める事となる訳でるのだがそれはまた別の話なのであるが

書いていこうかと思う。

「これはまずい。このままでは日本は外国によって征服されかねない」

「そうだ、再び大政奉還して来るべき新しき世を作らねばならん」

(もちろんこの動きに大老井伊直弼が反発するのだがそれはまた別のお話)

その後、井伊直弼は朝廷の御沙汰によって罪人の様に翻弄されながら斬首された事により更に問題は加速していく事となる。

「なにぶんこの様な形で終わってしまい、新しき世を作れる者がいなくなった訳でございますから……今我らは虐げられるがままになっておるのです」

「これ以上好き勝手にされてたまるものか!」

(少し話がそれてしまったのですがこの後に有名な水戸学・国学そして尊王攘夷思想の元と成った『精忠組』の四学者・渡辺華山 橋本左内 由利公正 頼三樹三郎(後の前原一誠)が安政の大獄へと繋がって行くのだ)

そんな流れの中で安政の大獄が起こったとされ 安政5年(1858年)3月には直弼の従兄弟にあたる水戸藩主・徳川斉昭も水戸にて謹慎にさせられてしまう。

(なぜだ!何故このようなことに)

斉昭は嘆き続けた。

それはそうだろう尊敬する主君である井伊直弼が謀反の容疑で連行されてしまったと言うのだから……

(因みに水戸ではそのような事は無いとされているのだが史実だと言われる話としてこの様に言われている。)

そんな混乱の中で、謹慎中の薩摩藩邸が襲撃される事件が起こったのだとされているがある書物によると佐幕派による計画的な犯行だとしたともされている。(あくまで噂程度の話である)

「なにごとか!」

「大変で御座います。佐幕派が襲撃して参りました」

この事がきっかけで斉昭は桜田門外での事件を思い出し挙兵を決意したとも言われている。

(何故そう決めたのかは不明なのだが……)

そんな状況の中、水戸藩から分離し独自の権限を持ち幕府に反旗をひるがえそうと動いていた越前藩の藩主であった松平春嶽も水戸へと向かい決意を新たにする。

「いざとなれば我らだけでも志士となろうではないか」

「そうですな、佐幕派などが幕府を倒すなどあっぱれ武士のする事ではないでしょうからのう……」

この後は政治的なやり取りが行われて行く事になり大老が江戸を離れる事、そしてそれにより各地の諸侯たちの力が削がれて行く事になるのだがその話もおいおい書いて行こうと思う。

それはさておき、佐幕派や勤王派の対立は激しくなりこの年の慶応2年(1866年)12月に薩摩藩・長州藩などが連合した『偽官軍』と名乗る軍勢が長岡の城を襲撃した事が原因となり薩長土肥から脱し勢力拡大を目指す薩摩藩と攘夷を主張する長州藩が再び戦う事になってしまうのである。

それにより『白河口の戦い』が起こる事に成るのだがその混乱に乗じて佐幕派の盟主であった徳川慶喜は将軍職を引き受ける事になるのだった……。

(史実とされている話なのだがね)

そんな大変な時期の中で江戸の町へと残っていた雄藩である水戸藩は尊王派として行動する事になるのだが、朝廷と幕府の綱引き等や混乱する中でこの混乱に乗じて騒動を起こしていく者を粛正していく事で徳川慶喜は将軍に就任する事に繋がって行く。

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