第4話

(ここでやっと年代についてだが)

天保15年(1844年)3月29日(1868年4月5日)に江戸で行われた水戸藩の浪士による水戸藩の脱藩浪士により尊王攘夷を掲げ命がけで抗議した水戸の烈士の鵜飼吉左衛門は金35両という賞金に化けてしまったのだ。

幕府はその見返りに桜田門外の変に連座して従五位に叙される幕臣である永井玄蕃を御目見させようと考えるのだが、計画を任されていた一橋派の月照と尾張・紀伊派らが激しく対立してしまいそんな混乱の中水戸藩は朝敵とされて徳川慶喜が恭順の意を示し、明治2年(1869年)には朝廷が尊王攘夷に勅許を出した事もあり それに刺激されるかのように幕府も態度を一変させ御三家たる会津藩・桑名藩といった外様大名を中心に一橋派への追討を行う事となる。


それを受けた一橋派は水戸へと逃げ込み『天狗党』と言う組織を作り軍備を整えようとしたものの、明治元年(1868年)9月2日には天狗党首脳が水戸城を出て藩邸に立て籠もり武力行使ではどうにもならないと判断し、知事の山内豊信は軍制改革の上全国的な運動により立場を明確にすべきだと説いた。

そしてこの水戸藩の戦争準備を察知した新政府は『江戸を総攻撃せよ』との方針を打ち出し徳川家をはじめとする親幕派は続々と江戸へと集まるのである。

そうなれば天狗党のした事は只の強盗行為な訳であり、その事を知った時の一橋家の落胆は大変なものだったそうだ。

(そんな最中江戸藩邸は陥落したとされている)

(そしてこの後に起こった天狗党は各地で蜂起・暴動を起こし、幕府軍を翻弄する事になるのだが)


これが事実だとすれば何ともやるせない思いがするのであるが、この先は史実に従って進める事にします。

(この後には天狗党による放火により幕府側である各藩では江戸市中からの撤収を開始し天狗党の後を追う様な形で江戸を去る事となる)

しかし、月照らは水戸へと逃げ込むが戦争という混乱の中身柄も抑えられて厳しい尋問を受ける事になったのだ。

(暗殺命令を恐れた天狗党が水戸に戻り対応したため、そう酷いものにはならなかったそうである)

この時に水戸藩主徳川斉昭と尾張藩主徳川慶勝は不仲であったとされ。

後に、明治時代になると欧米列強に対抗するための政略結婚の一環として、戊午の密勅を受け慶勝へと嫁いだ皇女和宮もいるのだがここではその話は割愛する

その様な状況である桜田門外の変において一橋派の中の一人である大警視・川路聖言率いる清国(中国)艦隊が発砲し、江戸の町を火の海へと化す事態となった 因みにこの頃の日本の人口は

約7000万ともいわれているのだとか

(だからどうしたって事でも無いのですが。)

そんな混乱の中であった『天狗党』であるが蜂起から僅か7ヶ月後の元治元年11月(1864年12月)に水戸市中にて天狗党員により暗殺されたそうである。

これが史実かどうか定かでは無いと念を押す様に再度述べたいと思う

(重ねて悪しからずご了承願いたい)

嘉永6年(1853年)3月26日ペリー艦隊が来航した事を皮切りに世の中は大きく変わって行くのだ。


そんな混乱の中である明治元年(1868年)正月(1月20日)1日の午前0時、朝廷は王政復古の大号令を発した。

(これは史実だと言われている)

それに合わせ明治天皇が御尊位とともに新政府へと勅命を発する事となった。


(ここで言う所の御とは徳川慶喜の事を指しているのだろうと思われ、大元帥の意味もあるがここでは控えておく事とする)

そんな明治の大変革により今までの江戸時代が終わり幕藩体制の確立から中央集権化された近代国家への道を歩み始めた訳である 。

この時『五か条の御誓文』が発布され天皇を中心とした中央集権的な国家体制を作るとした野心的とも言える様な勅命が出された訳だ。(簡潔に記しておく事とする)

そして、日本の社会・文化は西洋化により急速に変化していくのである……

そんな中で桜田門外変での活躍から信頼を得ていた川路に対し 水戸藩は軍事方や大目付として起用 安政5年(1858年)3月には永井玄蕃とともにアメリカに派遣され通商条約締結を行ったのだが、この行動には桜田門外変の時の尊王攘夷からの意向でありそれによって薩長新政府への不評を買わぬようにとの行動だったとされている。

その為水戸藩が積極姿勢を見せて幕府の姿勢に譲歩をし条約締結を行い諸外国の技術や産業を取り入れようとしている

そんな政治的な側面を見せる様な事に対しての反発が有り『天狗党』などの反乱となってしまう結果へと繋ったのだそうだ

そして、この条約改定は不平等であり三国同盟違反であると井伊直弼を中心とした水戸・越前の両藩の者が怒り


天保12年(1841年)

7月23日に水戸の浪士数名により大老である井伊直弼が暗殺され翌明治元年

(1868年)8月8日には越前藩藩主の松平春嶽が大阪で急死している。

これにより佐幕派であり尊王攘夷派でもある水戸藩・越前藩の関係が悪くなる事となり幕末時代の大政奉還へと繋がって行くのだが、一説によると大老暗殺が引き金になっているとも言われていたりするのだが確かな事は分かっていないのだ(あくまで推測の一つでありその証拠は無い……)


そして明治時代へと移行していくのである。

天保12年(1841年)8月25日安政5年には水戸藩において尊王攘夷の思想が芽生え始め、天狗党とまで呼ばれる反幕府運動へと繋がっていく事に成るのだがそんな最中の元治元年(1864年)に起こった桜田門外の変なのである。

その事を知り史実かどうか定かではない中で判断する事が出来るとするならば『井伊直弼暗殺説』に合致している様に思えて仕方ない。

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