20 刺傷

 午前七時半。結局全く眠ることができなかったアレクシアは、起きてきた子どもたちの朝食を作るため、久しぶりにキッチンに向かった。

「しまった、……ベーコンが切れている……」

 ベーコンエッグを作ろうと思い立ったが、ベーコンがない。ベーコンがなかったとしても目玉焼きとして成立するが、せっかくならと、アレクシアは市場に出掛ける準備をした。


 孤児院を出て行こうとしたところで、背後から呼び止められた。

「アレクシア、どちらに行かれるのですか?」

 ヴィルヘルムは、いつもならアレクシアに代わって子どもたちの朝食を作るため、七時半にはキッチンに立っていた。しかし、今日は違った。

 それが、まさか、アレクシアの行動をうかがっていたとでもいうのか。

「ベーコンを買うために、市場の方に……」

「なら、私も同行します」

 笑顔を向けてくるヴィルヘルムに対し、アレクシアは、いつもなら優しを感じていただろうに、今回は若干の恐怖を覚えていた。


    ◇◆◇


 朝早くから開店している市場は、多くの人で賑わっていた。それはそうで、生鮮食品はシュヴァルツェンベルク市内だとここでしか買えない。

 ここ数日では珍しく朝から雪が降っており、より一層肌寒くなったように感じられる。


「あら、アレクシア、おはよう」

「おはようございます」

「アレクシア、今日はキノコが安いよ」

「なら、少しだけ」

「アレクシアちゃん、ベーコン、ちょっと割り引いておくよ」

「ありがとうございます。助かります」


 アレクシアは市民たちと仲が良い。仲が悪い人がいないだろうと思えるほどに、誰にでも愛想を振り撒いている。

 こんな調子で順調に買い物を済ませた二人は、市場から出て、教会へと続く薄暗い裏路地を歩いていた。昼夜問わずほとんど人が通ることのない、本当に狭い道だ。


 次の瞬間、目の前に急に現れたものがあるかと思いきや、真横から力強く押しけられ、アレクシアは買ってきたものを落として地面に叩きつけられた。

「うっ…………」

 彼女の目線の先で、ヴィルヘルムが腹部を押さえている。そこからは……白い背景に印象的に浮かび上がる鮮血が。

「ヴィ、ヴィルヘルム!?」

 彼の目の前で、指紋が残らないようにするためか、黒と青の手袋をはめた状態で包丁を持って立っている人物——犯人は、少々戸惑った様子だが、すぐに包丁を投げ出して逃げていってしまった。


「ヴィルヘルム、しっかりしてください! 今、医師を呼んできますから! しっかり、……しっかりしてください!」

 何度も声をかけ、歯を食いしばって苦しそうな顔をしているヴィルヘルムを後に、アレクシアは近くの病院へ走った。


 幸い、この場所は、エルザやマリーを預けていた病院の近くだった。走れば二分もかからない場所だ。

 一人残されたヴィルヘルムは、うつろな目をしながら曇天を見上げていた。朝から雪が降っており、体温がみるみるうちに下がっていく心地だった。


    ◇◆◇


 次にヴィルヘルムが目を開けるのは、それから数日後のこと。

 それまでの数日間は、真夜中、アレクシアは一人でアイヒベルガー城に訪れていた。

 約一ヶ月間、ずっと二人で歩いた道だ。急に一人になった彼女は、どうしようもない虚無感に襲われていた。


 アイヒベルガー城の例の部屋までやってきた。音も立てずそっと押し開いた扉の向こうは、一ヶ月前の光景に戻っていた。

 運んできた薪を積み上げ、祈る手をして火を灯す。

 ——なんて、寒いんだろう……。

 パチパチと焚かれる薪の目の前にいるのに、暖かさが伝わってこない。


 日付が変わる時刻、アレクシアは手を合わせた。

 いつもならヴィルヘルムがコートをかけてくれるが、今日はない。昔からずっと同じ、自分のウールのコートのみ。あまりにも肌寒いのは、コートが一枚少ないからなのか。


「神様……」

 二時間の祈りの後、アレクシアは口を開いた。

 もう返事が返ってこないことはわかっている。それでも、アレクシアが、どうしても神に聞いてほしいことだ。

「神様がおっしゃったことは、真実なのかもしれません。今の私は、神様が教えてくださったことを確かめる方法を知りません……」

 アレクシアは細々とした声で神に話しかける。無論、夜空は暗いまま、ただそこにあり続ける。


「私は、……アレクシア・リヒテンベルクは、シュヴァルツェンベルク市に生まれ、その時から余命が決まっていたようなもので、……ずっと、自分の使命を全うするためだけに生きてきました」

 焚き火の炎が弱まってきている。彼女一人で持ってくることができる量の薪では、少々時間が経ちすぎたようだ。

 雪が降る中、アレクシアは、祈り自体は終わったにも関わらず、手を祈るようにしたまま話し続けた。

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