16 家事

「いつ、起きましたか?」

 背後から急に声が聞こえてびっくりした。アレクシアのポットを持つ手が揺れて、コップに注いでいたコーヒーを床にこぼしてしまった。

「ヴィ、ヴィルヘルム……、起きられたのですね」

「はい。で、アレクシアはいつ起きられたのですか? まだ七時を回ったばかりですが」


「つい先ほど、……です……」

 アレクシアが部屋の隅から雑巾を持ってきてしゃがもうとしたところ、ヴィルヘルムがその雑巾を横取りし、彼女には座らせまいと先に腰を下ろした。

「わっ、私が拭きますから、ヴィルヘルムはあちらで休んでおいてください!」

「いいえ」

 床を拭きながら、ヴィルヘルムは顔を上げずに話し続ける。

「私が急に話しかけて驚かせちゃいましたから。気にしないでください」

「そんな、……申し訳ございません……」


「それと——」

 ヴィルヘルムは床を拭き終えて、立ち上がってきた。アレクシアより身長が高い彼は、アレクシアからほど近い場所に立って、彼女の顔を見下ろしている。

「アレクシアは、謝ることが多すぎです。今は、ありがとう、が正しいですよ」

「はっ、はい……、申し訳、……ございません…………」

 思わず俯いてしまう彼女に対し、ヴィルヘルムは彼女の頭に手を乗せながら笑みを向けた。


 実際のところ、アレクシアは、五時ごろに一度起きてから、再びベッドに戻って一時間ほど寝ていた。その後、なかなか熟睡することもできず、六時半ごろにまた起きては子どもたちの朝食を作っていた。

 もとより想定していたことだったが、やはり四時間の祈りに対して睡眠が短すぎた。子どもの朝食を作っている間も、頭の中がぼんやりとしていた。


    ◇◆◇


「……シア……ちゃん、アレクシアお姉ちゃん」

 昼食を食べた後、談話室の掃除をしている間に床で寝てしまっていたらしい。ほうきを手に握ったまま床に座って壁にもたれかかっていたアレクシアの周りに、心配そうな顔をした子どもたちが集まっていた。

 アレクシアは疲れが取れていない身体を持ち上げ、周囲を見回した。……ヴィルヘルムの姿が見当たらない。

「男の人なら、少し前に出て行ったよ」

 子どものうち一人が教えてくれ、頭の中が急に冴え渡ってきた。

 ——しまった、私がこんなところで寝ている間に逃げられた——!


 アレクシアは乱雑にほうきを壁に立てかけて駆け出した。そして、地下にある孤児院の扉を思い切り押し開いて階段を駆け上がろうとしたところ——

「あっ、アレクシア。部屋の奥にあった倉庫からほうきを借りたんですけど、よかったでしょうか?」

 教会の入り口から階段を数段降りたところに、ほうきを持ったヴィルヘルムの姿があった。彼はアレクシアが扉を開いたのに気が付いて、手を止めてこちらを見下ろしている。

「あっ、…………はい、大丈夫です、……」

「ならよかった。ありがとうございます」


 しかし、どぎまぎしているアレクシアを見て不思議に思ったのだろう、束の間の沈黙の後、ヴィルヘルムが再び口を開いた。

「アレクシア、いかがなさいましたか?」

「い、いえ………………」

 どうして変なことを考えてしまったのだろう、ヴィルヘルムはとても優しい人で、自分がするべきことを代わりにしてくれるような人であるのに——、といった言葉が、彼女の頭の中をぐるりぐるりと巡っていた。


    ◇◆◇


 ヴィルヘルムの優しさは、何日経っても変わらなかった。

 やはりアレクシアは、夜中に満足に睡眠を取ることもできないままだったが、それがために体調を崩しがちになっていた彼女に代わるように、ヴィルヘルムがほとんどの家事をこなしていた。

 最初の頃は、侯爵という生まれもあってかできないことも多かったが、積極的にアレクシアからやり方を教わっては、翌日にはできるようになっていた。いつの間にか、アレクシアの方が家事をすることが減っていた。


「アレクシア、今日の朝食はトーストですよ」

「アレクシア、紅茶は飲みますか?」

「アレクシア、少し中央広場の市場に行きたいのですが」


 二週間も経てば、元々侯爵だったとは全く想像できないほどに、ヴィルヘルムはすべての家事をこなせるようになっていた。


「アレクシア、久しぶりのワインです」

 ヴィルヘルムが孤児院にやってきてからちょうど一ヶ月が経過した。

 この頃にはアレクシアの祈りが功を奏し、クレマー川の水を利用した製品を再び口にすることができていた。王室へのワインの献上も近いうちに再開するだろう。

「あまり、私はワインを飲まないのですが、……一口だけ頂きますね」

 そう言いながらアレクシアは少しだけマグカップにワインを注いだ。

 目を細めてその様子を見つめるヴィルヘルムの存在を、たった一ヶ月しか一緒にいないはずなのに、アレクシアはまるで当たり前のように感じていた。


 そんなある日、アレクシアは昼食を食べながら、ヴィルヘルムとの楽しかった記憶を思い出していた。

 それは、ヴィルヘルムが孤児院に来てから二週間ほど経った時のことだった。ヴィルヘルムが急に、シュヴァルツェンベルク市内の案内をしてほしい、観光をしたい、と言い出したのだ。

 アレクシアは特段用事がなかったので、二人は朝食を食べてから出掛けることにした。

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