15 四時間

 丘の上のアイヒベルガー城には街の光が届かない。そのため、城に到達してからは月の光だけが頼りだ。

 今宵は満月。アイヒベルガー城内は、昨日よりもすべてがはっきりと見える。


 二人は手を繋いだまま例の部屋までやってきた。扉を開いたのはヴィルヘルムだった。

「火を灯します」

 ヴィルヘルムはそう言ってから、焚き火の跡の前にしゃがみ込み、その隣に昨日アレクシアが置いた薪を重ねてから、祈る手を作った。

 直後、薪にポッと火が灯り、徐々に周囲に暖かさを放った。

「……早いですね…………」

 一部始終を見ていたアレクシアが呟いた。


 アレクシアは、夏季以外はほとんど毎日火を灯しているため、ある程度この手の魔法に慣れているのであるが、それでも三十秒ほどかけないと薪に火を点けることができない。

 しかし、たった今、ヴィルヘルムはわずか数秒でそれをやってみせた。

 これが、魔力を貯めることができるということなのか——


    ◇◆◇


 歌を歌いながらも、アレクシアの脳裏では複雑な思いが駆け巡り、思考に亀裂が入っているようだった。

 隣にはヴィルヘルムが座っている。彼は何も言わず、ただアレクシアが歌を歌っているのを眺めているだけ。


 こんなに寒いのに、雪が降っているのに、心が締め付けられるのに、……歌を歌うのを止められない、この場から動くことができない。

 それがアレクシアに課せられた使命。この街、シュヴァルツェンベルク市を守るための責務。


 これまで、何度も同じような冬を体験してきた。情緒がついた頃から歌を歌わされ、かれこれ十五年ほどは歌っただろう。その間毎日、熱が出ても風邪を引いても一日も休むことなく、今日まで気力だけで乗り越えてきた。

 それも、長くてあと七年。いや、きっと、生命力はもうほとんどないだろうから、五年程度なのではないだろうか。

 ——あと、五年……。


「アレクシア、……」

 隣から急に呼びかけられ、目を覚ました。眠ってしまいそうになっていたらしい。

 歌を歌うのをやめてはいけないし、こんな場所で寝てしまえば凍死するかもしれない。アレクシアは小さく「申し訳ございません……」とだけ呟き、また歌い始めた。

「今、一時間経過しました」

 ヴィルヘルムが隣で懐中時計を眺めている。


 ……思えば、ヴィルヘルムをこんな場所に連れてきて、ただ歌い終わるのを待たせているだけです。……退屈なことこの上ないでしょうに——

 アレクシアは心の中で、そんなことを考え始めた。

 ……私は卑劣です……。自分一人だけでここに来て、ただ四時間歌えばいいものを、勝手にヴィルヘルムを巻き込んでしまって——

 隣の彼は懐中時計を戻し、白い息を宙に舞わせては……夜空を眺めていた。

 ……ヴルフ市の虐殺は問題。でも、私にできるのは、シュヴァルツェンベルク市を守ることだけです。それなのに、まるでヴィルヘルムも悪人ではないかと勝手に疑って——

 歌うアレクシアの青い瞳——それは瑠璃るりより透き通り、蒼玉せいぎょくよりもあでやかで、しかし奥に秘めた黒瑪瑙くろめのうのような影はその境遇を照らし出している——から、涙が流れ出していた。そしてまた、地面に到達しては、ただ背景と同化してゆく。

 ……昨夜と同じだ。


 しかし、この地面にアレクシアが涙を流したことは、かつて一度もなかった。こうも感傷的になってしまうのは、彼女の使命が彼女だけの使命ではなくなったからだろう。

「……あと、二時間三十分……」

 隣からまた声が聞こえてきた。まだ半分も終わっていない。

 しかし、手足はもう感覚を完全に失っている。これ以上続ければ、歩くことさえできなくなりそうなほどに、……いつか寝てしまいそうなほどに、身体が限界を迎えている。

 ——でも、終われない。


 声が途切れた時……四時間の祈りが終わった時、アレクシアは祈りの手を緩めると同時にその場に倒れ込んだ。

「アレクシア!?」

 ヴィルヘルムがその身体を揺するが、芯からこごえ切っている彼女は応答しない。息はあるようだが、目は開かない。

「アレクシア、やはり、四時間なんて無茶だったんです……。……すぐに孤児院まで帰りましょう」

 応答のない彼女を抱え、ヴィルヘルムは早足で丘を下っていった。


    ◇◆◇


 暖炉の熱で身体が温まったアレクシアが目を覚ました。そして顔を左右に動かしては、

「ヴィ、ヴィルヘルム……」

 朝食の時の椅子に座ったまま、ヴィルヘルムが頭を項垂うなだれて寝ているのが見えた。アレクシアはベッドにいるようだ。


 アレクシアは音を立てないように立ち上がった。足元がどうも安定しない。上着類が脱がされているのに気が付いて、少々頬を赤らめながらも、部屋の壁にかかっている時計を確認した。——午前五時。

 歌を歌い終わるのは日付が変わる時刻から四時間後、今は午前五時ということは、長くても一時間程度しか寝ていないということだ。


「んん、んんん……」

 後ろから声が聞こえてビクッとしたが、声の主はやはりヴィルヘルム。

 アレクシアはベッドで寝ている時にかけられていた毛布を、椅子で寝ている彼にかけ替えた。暖炉で暖かいとはいえ、毛布無しでは肌寒いことに変わりない。

「……アっ、…………アレクシア………………」

 確かにそう呟いた。明らかに寝言なのに……アレクシアは思わず目を細めてしまう。

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