4 祈りの歌

 マリーとエルザを病院に預けた後の夜、すでに街中から人々の姿が見えなくなった頃だった。アレクシアは孤児院の子どもたちを寝かし付け、教会からそっと外に出た。

 昼間は暖かく過ごしやすい気候だったが、夜になると気温がぐっと下がり、また空から雪が降り始めていた。


 人気ひとけのない街中まちなかを足音すらほとんど立てずに歩き続け、ようやくやってきたところは丘の上、アイヒベルガー城の前。

「今日も……」

 不明瞭に呟いて、アレクシアは昨夜も過ごした部屋へとやってきた。

 焚き火の跡を足で簡単に片付け、持ってきた薪を同じ場所に並べた。そして、願うように両手を握れば、……薪にパッと火が灯った。


 アレクシアは準備が整ったとでもいうように、窓際に移動した。そして、ゆっくりと座っては、先ほどと同じように手を握り、空に祈る様子を見せた。

 が、突然扉が軋む音が聞こえ、アレクシアは驚いてそちらに目を向けた。

「アレクシア・リヒテンベルク様——。……やはり、そういうことでしたか」


「ヴィルヘルム・ハンス侯爵……、どうして……ここに?」

 アレクシアは自分の目を疑った。昼に教会前で出会ったヴィルヘルムが、こんな夜中に、廃墟同然の古城にいるというのだ。容易に信じられるはずもない。

 しかし、ヴィルヘルムは至って冷静な口調のまま、アレクシアの質問に答える。


「『精霊が棲む古城』、この名前に何か違和感を覚えまして。一体どうしてこんな名前なのかと聞き回っても、市民は適当なことを言うばかり。さらに聞き回ってようやく、夜になれば歌声がするということを聞いたものですから、ちょうど確認しにきたのです。すると、……あなたが『歌姫』ということでしょう?」

 なるほど、とアレクシアは頷いた。


 しかし、彼女にはヴィルヘルムとゆっくりと話す時間がなかった。「お話いただいたところ、申し訳ございません」と前置きしてから、彼女は続けた。

「今から、神様に祈りを捧げなければいけません。毎日、日付が変わるこの時刻にこの場所で歌わなければならないのです」


 現在は日付が変わる一分前。ヴィルヘルムは懐中時計を確かめてから、アレクシアに向き直った。

「私はここからその様子を見ておきたいのです。どうぞ、祈りを始めてください」

 ヴィルヘルムにお断りする時間もない。

 アレクシアは意を決したように窓に向いて座り直した。そして、深く息を吸い込んでは——


    ◇◆◇


 その声はあまりにも美しく繊細で、しかし儚く哀愁あいしゅうを感じさせるもので、如何いかんせん言語で形容できる幅を超えていた。さらに、文字どおり心が奪われるような心地がして、……それはつまり何を意味しているのかということもわからないほど、ヴィルヘルムのすべてが彼女の歌声に呑み込まれていた。

 そのような非日常的な時間をヴィルヘルムは感じていた。

 アレクシアが歌う言葉はわからない。おそらく、シュヴァルツェンベルク市の言葉でもなければ、そもそもリッチェル王国内のどこかで話されている言語でもないのだろう。これは——神と会話するための言語なのだろうか、などという疑問が頭をよぎった。


 しばらく時間を忘れていたが、歌い始めてから二時間ほどしただろうか、アレクシアは歌うのを止めてヴィルヘルムがいる方向を再び向いた。

「ヴィルヘルム・ハンス侯爵、まだそこにいらっしゃったのですね……」

「ええ、あまりにも美しい歌声で、時間というものを忘れておりました」


 そう答えると、ヴィルヘルムはいつの間にか瞳に溜まっていた涙を見せまいとそっと拭ってから、コートを脱いでアレクシアの元へと歩み寄ってきた。

「ヴィ、ヴィルヘルム・ハンス侯爵、いかがしましたでしょうか?」

 戸惑うアレクシアの肩に自分が着ていたコートをそっと掛け、次に手袋を取り始めた。

「雪が降るような気候です。お召しのコート一枚だと、寒いでしょう。……ほら、頬が赤くなっていますよ、寒い証拠です」


 頬が赤くなっているのは、単に寒いからなのだろうか。ほんの一瞬だけそんなことを考えたアレクシアだったが、今度はヴィルヘルムに手を握られたため、脳内は急に真っ白になった。

「ほら、手もかじかんでいます。……手袋を」

 そう言いながら、彼はアレクシアの手にそっと手袋をはめた。


    ◇◆◇


「……つまり、アイヒベルガー家が最後に神と交わしたちぎりの内容は、シュヴァルツェンベルク市の市民を守るために、毎日歌を捧げるということだったわけですね」

 ヴィルヘルムの馬車は、アイヒベルガー城の表にめられていた。それに乗り込んでから少しして、アレクシアとヴィルヘルムは二人、馬車の中で会話をしていた。

 それほど手入れのされていない丘の道を進む馬車は大きく揺れながら、街の方へと向かって走っている。

「はい。そして、あの歌は単なる歌ではなく、魔法なのです」

「と言いますと?」

 ヴィルヘルムは首をわずかに傾けて続きを促す。


「シュヴァルツェンベルク市には、昔、非常に優秀な魔法使いがたくさん住んでいました。しかし、魔法の力による国家転覆を恐れた王室が、シュヴァルツェンベルク市民の虐殺を始めました」

「シュヴァルツェンベルク市は王国の南端に位置する小さな街。だからこそ、得体の知れないこの街を王室は恐れたのでしょう。そうして、『最期の末端都市』と呼ばれるようになった……」

 ヴィルヘルムの言葉に、アレクシアは小さく頷いた。


「はい、ご存知のとおりです。虐殺により市民の多くは亡くなってしまい、それぞれが持っていた魔力は器を無くしてこの地を駆け回りました」

「しかし、……」

 話始めようとしてからヴィルヘルムは頭の中の整理をしているようだ。口を何度か開閉してから、頭の中が整理されたのだろう、また声を出した。


「空気中の魔力が急に増えると、人々に悪影響を及ぼすとされていますよね」

 たとえば、人体に異変が起きたり、治療不能な病気に罹患りかんしたりして、最終的に死に至ることがほとんどだ。

 アレクシアはまた小さく頷いて、話を繋げるため、「だから……」と言葉を発した。

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