第2話

 その日も僕は檜扇ちゃんと一緒に目を覚ました。

「おはようございます。誠一君」

「ああ……、おはよう」

「? …………なるほど」

 いつもは布団からそそくさと出て帰る準備をする彼女なのだが、今日は何故かそうしない。しばらく僕の顔をじっと見ている。どうしてそんなことをしているのだろうと理由を考えた時、頭がいつもより働かないことに気付いた。

「熱、ありますか?」

 彼女の言う通りどうやら僕の体調は優れないらしかった。少ししんどいし関節の痛みもある。

「あー……、確かにそうかもしれない。体温計……、どこだったかな……」

 おもむろに布団から出て体温計を探そうとする僕を檜扇ちゃんは静かに制した。

「病人なんだから寝ててください。体温計の位置覚えてますから」

 てきぱきと彼女に寝かされてしまう。抵抗する気力の無い僕は流される海月の様になすがままだ。駄目な大人だなぁ……。もしも熱があれば檜扇ちゃんに一人で帰ってもらうことになるし、会社にも報告しないといけなくて面倒だなぁなんてことを考えている間に体温計が届けられた。

「ん、ありがとう。計ってみる。あ、悪いんだけど檜扇ちゃん。今日は一人で……」

「看病しますよ。まぁ寝るまでくらいは」

 少しぶっきらぼうにそう言い切ってそそくさと彼女はキッチンの方に行った。

 早朝の内に帰るというのは彼女のルールだったはずだ。一緒にいられるのは夜だけで明ければさよなら――それは秋にしか会えないのと同様に、歳を取らないのと同様に、秋の精霊としてのルールだったはず。それを破ってはいけないという不文律は僕も本能の内になんとなく理解していて、だからこそついこの前に冬に会いたいと言ってしまったことは強く後悔したし反省した。

「え……、ひ、檜扇ちゃん?」

 早く帰らなくて大丈夫なのか。約束を破ってしまうことで君に何か起こるのではないか。そんなことを遠回しに聞こうと思ったが言葉が思いつかない。

「大丈夫ですよー。少しくらいなら大丈夫です」

 炊事場から声が届く。彼女が聡いのか僕の声が余りにも情けなかったのか、聞きたいことは筒抜けの様だった。

 少しくらいなら大丈夫。それはまるで門限を破る少女のようで。確かに見た目はそうなのだけれど、僕は彼女がそうではないことを知っていて。

 違う何かなのを知っていて。

 だからこそ、胸の奥がざわっとする感覚を覚えた。

 歩行者信号を無視する感覚で、車で信号無視をする友達を見た時の様な。罪を破ることは良くないという気持ちと、それでも全てを守っていたら生きにくいよねという、常識の中のバランス感覚。それが全くズレている人を見た時のような、不安。それを咎めてしまえば、自分と君との常識が異なるということを指摘してしまい仲間外れにしてしまうという、恐怖。

 当事者の彼女であればそれくらい分かっているはずなのに。

 どうして大丈夫なんて言葉を使えるのだろう。

――体温計が鳴った。

「っ!」

 不安に駆られて思案していた僕は体温計の音に驚いてしまった。しかしそれで現実に引き戻されて思考が落ち着く。デジタルの文字盤には38.2℃と表示されていた。

「何度でしたー? あー、結構高いですね。もう、頑張りすぎなんですよ。ちゃんと休憩しておいて――」

 文字盤から目を離した彼女と目が合った。その瞬間、彼女は笑い出した。

「ふふっ。誠一君、どれだけ不安なんですか?」

 どうやら一目見ただけで分かるくらい情けない顔を僕は晒していたらしい。

 まるで駄々っ子をなだめるように彼女は笑顔を浮かべる。

「大丈夫ですよ。まぁ……少しくらいは怒られるかもしれませんけど。ほんと、それくらいですから」

 それは彼女が見せる年不相応な態度とは少し異なる大人らしさ。思考がハッキリしていたり賢いのではなく、もっとずるい大人らしさ。そんな印象を抱いた。

「だから、誠一君はゆっくり寝ておいてください」

 笑顔のままで彼女はそう言って僕をあやしキッチンに戻った。

 なんとなく。

 僕は不安になったままだったのだけれど。

 それを言わないこともまた“大人らしさ”な気がして。

 なんとなく。

 黙っていた。

 その後、檜扇ちゃんが作ってくれた雑炊を食べた僕は彼女に寝かされ、熱にうなされながら微睡むことになる。そして皆よろしく、体調が悪い時に見る夢というものは大抵いいものではない。

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