秋の長々しい夜に、秋女だった君と。
鵙の頭
第1話
山鳥の尾のように秋の夜は長いと歌う。だけれど、だからこそ夜明けの風は清々しいのだと思う。
「今日もここまでで大丈夫です」
「そっか。じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
まだ、ほとんど人影の見えない改札の前で、僕は小さく手を振った。あどけなさの残る彼女も小さく手を振り返してホームの奥へと消えていく。見えなくなるまで見送って、そこで僕はやっとホッとするのだった。これで今日も、僕は寂しさを感じずに済んだ。
ホームの奥から改札側に向かって、清々しい風が吹く。
代わりに少しだけ罪悪感はあるのだけれど、それもこれが洗い流してくれる気がする。そうして駄目な大人である僕は改札に背を向けて自分の家に帰るのだった。
夜。仕事が終わり、精神的に疲れた僕の家の前にはまた彼女がいるのだった。
「あ、誠一くん。こんばんは」
彼女は挨拶をする時に丁寧に頭を下げる。そのうやうやしい動作に少し笑いを誘われながら、僕も真面目に礼を返す。
「
人工的な蛍光灯の光を反射して彼女の黒髪がギラギラに輝いている。月明りの下などで見るとそれは大層美しいのだが、一人暮らし用のアパートの階段で見ると異物感がある。
「ちょっと待っててね。今開けるから」
「はい」
気持ち急ぎ目にポケットから鍵を取り出して自室の扉を開ける。彼女は学生では無いのだが、どうしてか制服を着ているので、近所の人に見られると少し厄介なのだ。
部屋に上がると、彼女は小さな鞄を机の上に置いて、コタツに足を入れる。
「寒くなってきましたね」
スーツをハンガーに掛けながら適当な相槌を打つ。
「今日もお仕事お疲れ様です」
「ありがとう」
彼女と喋っていると自然に口が緩む。あまりそれを表に出すと気持ち悪いので自制しているが、最近は隠せているのかも怪しい。
ティーパックの緑茶を二人分作りコタツの上に置く。
「ありがとうございます」
「今日は晩御飯なにがいい?」
「なんでもいいですよ」
「じゃあ鍋だ」
「またですか」
困ったような笑みを浮かべる。
どうにもそれが見た目相応な反応である気がして僕は少しドキッとするのだけれど、慌てて自我を取り戻す。どこからどう見ても女子中学生か女子高生に見える彼女は、どうやら秋の精霊らしい。檜扇という名前の彼女が秋の精霊であるという情報を僕は馬鹿みたいに信じていた。
僕と初めて会った時から十年が経つ。彼女の容姿は全く変化していない。そして彼女はどういうわけか、毎年の秋にだけ僕の前に姿を現わすのだ。そうやっていくつかの例を出せば秋の精霊だと説明することは可能だと思うのだけれど、でも、初めて僕が彼女と出会った時、何者でもないと気づいたのは直感でだった。
「熱気が籠りますよね。ワンルームだと」
鍋から出る蒸気に晒されて彼女の睫毛が湿る。それは髪と同様に黒い。まるで底の見えない井戸のように吸い込まれていく暗さがある。
一目みた時、彼女は綺麗だった。
不自然なまでに。恐ろしいほどに。どこかに連れて行かれそうになるくらい。
彼女は綺麗だった。
今でも僕はその日のことを夢に見る。初めて会った日のことを夢に見る。そして、目を閉じれば昨日のことのように脳裏に焼き付いて離れない。それほど衝撃的なことだった。
「どうかしましたか?」
それを思い出してぼうっと彼女の顔を見ていたことに気付く。
「ああ、ごめん。なんか眠いな」
「お仕事、頑張りすぎなんじゃないですか? 今日は早めに寝ましょう」
「んー……。そうだなぁ。でももう十月に入ったし……」
子供みたいに引き下がる僕を呆れながら彼女は宥める。
「何を言ってるんですか。働いてるんですから。体は資本ですよ」
そんなことを言う彼女は妙に大人っぽい。言ってることと外見がチグハグでそこも面白い。
「……失礼なこと考えてます?」
「いや、そんなことないよ」
「嘘ですね。ニヤけてますもん」
「道理でバレるわけだ」
「せめて突き通そうとしてください」
彼女と話すことは楽しい。あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。だからこそきっと寂しさも忘れられるのだろう。
ご飯を一緒に食べて、家事を分担して、交互にお風呂に入り床に就く。ここまでがいつもの僕達の日常だ。同じ布団に入って部屋の電気を消す。
「……もう今年も半分くらい過ぎちゃったね」
「そうですね。早いものです」
一緒の布団に入るからと言って何か疚しいことがあるわけではない。いや、同じ布団に入ることがきっともう疚しいことなのだろうけど。僕は彼女と手を繋いだことさえないのだ。毎年。毎秋。毎夜。僕の目の前に現れては一緒に寝るを繰り返す。そうして僕の寂しさを消して朝方に彼女は何処かに帰る。
「冬も会えたらいいのに」
それはふと口から出た本心のようなものだった。ただ、こんなことを言うのは珍しいということに、後から自分でも気付いた。彼女と一緒に居る時に願望の様なものを口にすることは殆どない。
しかも、彼女の在り様に対する願望など。
今まで抱いた事も無かった。
「そんなこと思っちゃ、駄目ですよ」
戸締りはちゃんとしているはずなのに弱い風が吹いている様な気がした。彼女に向けている背中に悪寒が奔る。彼女の声はそれほどに、冷たさを孕んでいた。
「私は秋の精霊ですから、冬には会えないんです」
いや、冷たいというより無機質なのか。
そんな彼女の声を僕は初めて聞いた。
「……ごめん」
どうしてかは分からないけど、とにかく僕はまずいことをしたと思った。それと同時に何故か、自分自身を否定されたような悲しい気持ちにもなった。
「……いえいえ」
その彼女の声は先ほどの温度の無い言葉とは違い少し沈んだ様なものだった。彼女も悲しい気持ちなのだろうか。分からない。
冬には会えない。それはどういう意味なのだろうか。そこには何か違う意味が隠されているのだろう。まるで、今の二人の関係性を揶揄している様な、言外の意味が。
結局その日はそのまま寝て、早朝に起きて彼女を駅まで見送った。都市部とは反対方向の電車が着くホームに向かう彼女に別れを告げる。その頃には悲しい気持ちなんてとうに忘れていて、いつも通りの清々しさと少しの罪悪感を持ちながら僕は会社に向かった。
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