第8話 メイド、ご主人様の笑顔を見る
「ご主人様、おはようございます!」
扉を開けてすぐ私がいたことに、ランスロット様は少し驚いたらしい。
いったん部屋へ戻って、すぐにまた廊下に出てきた。
「……何をしているんだ?」
「お掃除です。私、お掃除は苦手なんですけど、ご主人様のために精一杯頑張りますっ!」
わざとらしくアピールすると、ランスロット様は困ったような顔で軽く溜息を吐いた。
「まあ……頑張れ」
「はい、頑張ります!」
私の横を通り、ランスロット様は一階へ下りていった。
今、ヴァレンティンさんは厨房で朝食の用意をしているところだ。
今日の私の仕事は、二階の廊下部分の掃除。
ちょっとずつだけれど掃除の仕方もヴァレンティンさんに習って、そこそこできるようになってきた。
ランスロット様との距離は相変わらず縮まっていないけれど、冷たいことを言われることも減った気がする。
まあ、代わりに、困ったような表情をされることが増えてしまったけれど。
「少しずつ頑張ればいいわよね」
溺愛の道も一歩から、だ。ゆっくり時間をかけて、ランスロット様に私の魅力を伝えていけばいい。
幸いなことに、ここにはライバルになりそうな子もいないのだから。
◆
「ヴァレンティンさん、二階の掃除、終わりました」
私が掃除を終えたのは、昼食をとってからしばらくした後だった。
ヴァレンティンさんに比べれば今は何倍もの時間がかかってしまう。
でも、ヴァレンティンさんは嫌な顔一つせず、よく頑張りましたね、と私を褒めてくれるのだ。
「アリスさん、一つ頼み事をしていいですか?」
「はい、もちろんです!」
「これを坊ちゃんの部屋へ運んであげてください」
ヴァレンティンさんが指差したのはティーカップだ。
「ハーブティーです。リラックス効果があるんですよ」
「リラックス?」
「ええ。坊ちゃんは集中するとなかなか休憩しませんから」
集中? 集中って、いったい何に?
そういえば、ランスロット様は部屋で何をしているのだろう。
部屋にこもっていることが多いのは知っているけれど、中で何をしているのかは分からない。
「分かりました。持っていきます!」
こぼさないように、丁寧にティーカップをトレイにのせる。
頼み事、なんて言われたけれど、ヴァレンティンさんが気を遣って私にこの仕事をくれたのは分かる。
何をしているかは分かんないけど、疲れている時は可愛い笑顔で癒されたいものよね。
うん、きっとそうに違いない。
◆
「ご主人様」
コンコン、とドアをノックしても返事はない。
「ご主人様? いらっしゃいますよね?」
相変わらず返事はない。まさか無視しているのだろうか。いや、さすがに無視はしないはずだ。
「失礼しますよ」
声をかけて、ゆっくりと扉を開く。
わずかな隙間から中を覗き込むと、真剣な表情をしたランスロット様がいた。
ランスロット様は部屋の中央に設置した椅子に座り、大きなキャンバスと向き合っている。
キャンバスに描かれているのは、空だった。おそらく、夕方と夜の間の時間だ。
構図的にこれ、この部屋の窓から見た空よね?
繊細な筆遣いと、柔らかな色遣い。
思わず見惚れてしまうほど、ランスロット様の絵は上手かった。
声をかけるのを忘れて、しばらくの間絵を描く彼に見入ってしまう。
しかし、彼は筆を動かす手を止めて振り返った。
「……お前か」
「アリス、っていう可愛い可愛い名前があるんですよ?」
ぷく、とわざと頬を膨らませてみせると、ランスロット様は呆れたように溜息を吐いた。
せっかく可愛いぷく顔を披露したっていうのに。
メイドカフェで働いていた時なら、絶対に今の表情でチェキを求められたはずだ。
「ハーブティーです。リラックスがあるからと、ヴァレンティンさんが」
「ああ。そこにおいておいてくれ」
ランスロット様は部屋の隅においやられているテーブルを指差した。
どうやら邪魔で、いつもは真ん中にあるテーブルを移動させたらしい。
「では、失礼します」
「……もう行くのか?」
そう言った直後に、ランスロット様は自分の口を左手でおさえた。
ランスロット様自身も、口にした言葉に驚いたらしい。
「いや、お前なら、もっと騒がしくするかと」
「私のことなんだと思ってるんです?」
正直、扉を開ける前はそのつもりだった。
でも、真剣に絵を描いているランスロット様を見て、邪魔をしちゃ悪いと思ったのだ。
「それにしても、すごく綺麗な絵ですね」
近寄って、キャンバスを見つめる。何色もの色が混ざり合っていて、繊細な空の色が見事に表現されている。
私には絶対、こんな絵描けないわ。
「では、夕食の時間になったらまたお声かけしますね」
「……お前は妙なところで遠慮するんだな」
「はい?」
目が合うと、何でもない、とランスロット様はすぐに目を逸らしてしまった。
「あ、そうだ。その絵、完成したら絶対見せてくださいね、楽しみにしてますから!」
「……ああ」
え?
今、ご主人様、笑った?
頷いたランスロット様の口元はわずかに緩んでいた。満面の笑み、なんてとても言えないけれど、でも、確かに一瞬、ランスロット様は笑った。
「し、失礼します……」
どうしよう。心臓がうるさい。
部屋を出てすぐ、私は地面に座り込んでしまう。
ご主人様の控えめな笑顔、よかったな……。
ああもう、私がときめいてどうするの? 私の笑顔でランスロット様を魅了しようと思っていたのに。
目を閉じると、頭の中がランスロット様の笑顔で独占されてしまう。
あまりにもどきどきして、私はしばらくの間立ち上がることができなかった。
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