第三の手記

 一


 日は地平線の向こう側へと落ち、空に月が昇り、時が満ちました。

「さぁ、参りましょうか。蔵田さん」

 綾風の言葉に私は座椅子から腰を上げました。

「あぁ、行こうか」

 そう云いますと、私は旅館を後にするため、鞄を手に取り、肩に掛けました。

「これから死にに行くと云うのに鞄を持ってゆかれるのですか」

 綾風さんからの問い掛けに、私は…私の企みに気付かれぬ様、慎重に言葉を紡ぎ、そして、答えました。

「えぇ、まぁ…必要なものが這入っているので」

 私の返答に綾風さんは少々不思議がって居る様子ではありましたが、詮索はしないでくれました。


 二


 夜の海は漆の様に迚暗い色をしており、不気味な雰囲気を纏っておりましたが、黒き波に月の光がキラ々々と反射する様はまるで妖しい気を纏った宝石の様に綺麗でありました。

「私達は此れから、彼の母なる海へと帰るのですね…」

 そう云う彼女の顔は矢張り何処か哀しい表情を浮かべておりました。

 江ノ島へと続く長く大きな橋の上へと辿り着いた私は周囲を隈無く見渡しました。人影は一つたりともありませんでした。正しく、入水をするには絶好の機会でありました。橋の手摺りへと腰を掛け、ザァンザザアンと波音を立てる海の上へ、ぶらんと足をたらした綾風さんと私は互いの手首を縄で確りと縛りました。荒波の中、離れ々々に成ってしまわぬ様、其れはもう確りと…そして、其の後に、綾風さんはポケットの中からカルモチン(睡眠作用を持つ薬品)の錠剤の這入った硝子瓶を取り出しました。

 海へと入水する前に、二人は此の睡眠剤を呑むことにあらかじめ決めていたのです。カランコロンとドロップスの様に瓶から掌へと落ちてきた睡眠剤を握り締め、綾風さんは私へと云いました。

「此れで準備は整いました」

「あぁ、そうだね…」

「少し、順調に事が運び過ぎて怖くなってしまいますね」

 綾風さんの言葉に、私は不器用に笑みを浮かべながら、問い掛けました。

「矢張り、死ぬのは怖いかい」

 私の問い掛けに、綾風さんはあっと思わず言葉を詰まらせてしまいました。

「意地悪は止して下さい、蔵田さん。ちっとも怖くなんかありませんよ。えぇ、ちっとも…」

「そうか、済まなかったね」

「それじゃあ…左様なら、蔵田さん。彼の世でまた会いましょうね」

 そう云うと、綾風さんは掌の睡眠剤をぐっと呑み、私も続いて其れを呑む………ふりをしました。睡眠剤を呑み、あっと云う間に眠ってしまった綾風さんは、目論み通り橋から落ち、暗く深い海へと落ちて行きました。併し、現し世を去ろうとした彼女を…私はグッと力強く引き留めました。正直、当の私からしましても此れは驚きを隠せぬ行為でありました。燃え尽きたと思っていた感情の片鱗が今になって、ふっと息を吹き返したのです。そして、其の感情の片鱗はこう云うのです。

「矢張り、駄目だ…君は未だ、此の様な所で死んではいけない。君には夢が、そして、希望がある……死ぬのは私独りで十分だ…」

 眠ってしまった綾風さんを橋の上へと引き上げ、近くのベンチの上へとそっと寝かせた私は、肩に駆けていた鞄を下ろし、彼女の傍らへと其れを置きました。其の鞄の中には私の家から家具迄…売れるもの全てを売って作った綾風さんの病を治せるだけの金銭を入れてあるのです。

「左様なら、綾風さん。どうかお元気で…」

 そう云うと私は綾風さんの手首に縛った縄を解き、独りで最寄りの砂浜に場所を移した後、海の中へとゆっくり歩いて逝きました。片方の解けた縄を左の手首に残して。

 ──サァ、ササアァ、ササア………──

 淡く透き通った石英せきえいの様なしおの音が心地よく、私の耳をでた。

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【憂悶手記】 文屋治 @258654

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