第二の手記

 一


「何かお好きなものはありますか」

 私は綾風さんへと問い掛けました。

「本を読む事です」

 綾風さんは答えました。

「どうして本が好きなのですか」

 私は再度、問い掛けました。

「小説は現し世を忘れさせてくれるからです」

 もっともな所以ゆえんでありました。

「蔵田さんは何かお好きなものはありますか」

 綾風さんは私へと問い掛けました。

「私に好きなものはありません」

 私は答えました。

「本当に何もないのですか」

 綾風さんは再度、私へと問い掛けました。

「ない…と云うよりも、分からないのです、直ぐ傍にある己の事が…傍にあり過ぎるがゆえに焦点が定まらず、輪郭がぼやけ、分からない…正に、灯台下暗しです」

 こう云った後、私は少しの間、口を紡ぎ、思考を巡らせてみました。そして、私は一つ、答え…の様なものを導き出しました。

「私に好きなものはありません。ですが、厭より幾分か増しなものはあります…唯、其れだけなのです」

 こう云ったつたない会話を交えながら、私達は街道を歩んでおりました。


 二


 世間一般からしたら景気の良い(私からしたら苦悩に酔い繁程に騒がしい)、祭囃子が街の何処かから聞こえて来ました。

いささかか、死ぬには人が多過ぎる。まるで、他人の棺の中に閉じ込められているかの様な気分だ」

「そうですね。逝くならば丑三つ時の頃合いがよろしいでしょうか」

 私は綾風さんの言葉にうむと首を縦に振りました。今からくだんの時迄の間、迚々長い時、私と綾風さんは此の忙しなく活気の溢れる祭りを巡り歩く事に致しました。

「蔵田さん、射的をやって見ませんか。蔵田さん、あっちにかき氷の屋台があります。食べて見ましょう。蔵田さん、型抜きって知っていますか。蔵田さん、蔵田さん…」

 彼方の方へ、今度は此方の方へ、押し寄せる人の波を掻き分け、私を引っ張りながらも先導し、進み行く、綾風さんの顔は少々ぎこちなくも笑えておりました。彼女は何処か悲しげではありましたが、其れでも笑えていたのです。私も綾風さんに合わせ、笑って見せましたが、所詮しょせんは作り、私には到底笑えてなどいませんでした。

「綾風さんは一体どうして、今に至ったのですか」

 不意に気になってしまい、私は巡り歩く最中に綾風さんへと問い掛けました。すると、私の問い掛けに、綾風さんは踊り屋台で買った、淡く燃える紅蓮の鬼火の様にも見える林檎飴を見詰め、何処か悲しげな笑みを浮かべながら答えました。

「私の身体は今も、そして、此れからも蝕まれ続けてゆくのです」

 曰く、綾風さんは一週間程前、前例の極めて少ない、世にも稀な病に掛かってしまい、不幸中の幸いと云うべきであろうか…其れは治せぬ病ではなかった。併し、其の病を治すには人の一生を掛けなければ支払えぬ程の大きな金額が必要なのだそうだ。「可哀想に」私は真っ先にそう思いました。此れ程迄に良い人であると云うのに紙屑の如き散々な仕打ちでありました。

 私の心は更に一層哀しく、暗く、憂鬱となった。

「君は若し病が治せたら、此の先の人生を生きたいと思うかい」

 旅館で熱い湯飲みに這入はいった茶を啜りながら、私は綾風さんに訊ねてみました。すると、彼女は笑いながらこう云いました。

「そんなこと、聞いたって無駄ですよ。私に未来などないのですから」

 笑いながらもそう云う綾風さんに私はもう一度、訊ねました。

「なに、物は試しと云うものがあるだろう。それに、君は気にはならないのかね、自分が若し、今とは違う現実を歩んでいたら、どの様な道を歩んでいたのか」

「私が今とは違う現実を歩んでいたら、ですか…」

 綾風さんはふっと息を吐きながらも腕を組み、天を仰ぎ、私の言葉に想像を巡らせました。

「私は御店を開いていたと思います」

「御店…其れは一体どんな御店だい」

「お客さんと楽しく御話をしながら料理を振る舞い、美味しかったよって云って貰える様な…そんな御店です。まぁ、其れも今では儚い夢なのですが」

「いや、そんなことはない…迚良い夢だ」

 私がそう云うと、綾風さんはこう云いました。

「でも、今歩いて居る此の道も、一概に嫌いではないのです」

「其れは、どうしてだい」

 私からの問い掛けに、綾風さんは笑みを浮かべながらも答えました。

「だって、今こうして貴男と…蔵田さんと出会えたのですから」

 綾風さんの言葉に私は笑顔を浮かべて見せました。併し、其れが私の心の底から溢れ出た純粋な笑顔なのか、其れを確かめる術を私は持ち合わせてはおりませんでした。

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