【憂悶手記】
文屋治
第一の手記
一
私はとある小さな街の工場で慎ましく働いておりました。決して己の欲を出さず、常に周りの空気を読み、少ない給料でありながらも文句の一つも云わず、つい溢れそうになれば其れを口内でグッと噛み締め、唯々手を動かし、
掌から職を溢してしまってから二週間程立った頃でありましょうか。最初の頃は額に汗流し、血眼になって店々へと雇ってもらえるよう、頭を下げに行っていたのですが。もう、今では其の様な事もしてはおりません。
私の心(若しくは、感情)が燃え尽きてしまったのです。
もう…本当に、疲れきってしまったのです。
文句の一つも云わず、一生懸命、
分からない。
わからない。
ワカラナイ。
もう、何も分かりません。
二
生きる理由を失い、其れ以前に、生きて往く事の出来なくなってしまった私は「せめて、最期だけは…自分の思いを貫こう」と朝早くから鞄を肩に掛け、
両親と共に此の地へと来る事は私の数少ない生き甲斐の一つでありました。其れも今では儚い夢ではありますが。
江ノ島駅へと到着し、列車を降り、駅を出まして。私は深く息を吸い、そして、吐きました。いやはや、此処の空気は何とも美味しいものでありました。いえ、若しかしましたら、此の先何一つの予定のない(いえ、厳密には一つのみしか予定のない)心の余裕が麻痺させていた味覚を元に戻したのかも知れません。
「もし…もし……」
懐かしの光景に更けていた私へと一人の女性が声を掛けてきました。私は少々驚きながらも声の聞こえてきた背後へと恐る々々振り向いて見ました。すると、私の背後には一人の、鞄の一つも持たぬ、やけに軽装な女性の姿がありました。
「海はどちらへと歩いて行けばよろしいでしょうか」
私は最後に此の場所に来た記憶(両親と来た際の記憶)を呼び起こし、海のある方へと道を案内してあげました。すると、少女は「有り難う御座いました」お辞儀をし、何処か哀しげな表情を浮かべながらも、私の案内した道の通りに進んで行きました。
「お嬢さん、海へは何をしに行かれるのですか?」
気になって辛抱たまらなくなってしまった私は道行く女性へと問い掛けました。すると、女性は此方へと振り返り、唯一言、
「楽に成りに行くのです」
と答えるのでありました。
三
「楽に…成る……」
彼女の迚哀しげな表情、そして、此の妙に心に残って消えない一言。私は勇気を振り絞って彼女へと云いました。
「若しかしたら、貴方と私…考えている事は一緒かもしれません」
私の発した一言に、彼女の顔からは哀しみの表情が消え、其の代わりに驚きの表情が面一杯に浮かび上がるのでありました。
近くの寂れた喫茶店へと這入り、私は珈琲を、彼女は紅茶を頼みました。
「貴男も自死を…されるのですか……」
彼女からの問い掛けに、私は珈琲を一口飲み、答えました。
「えぇ、数奇な事もあるものですね。真逆、同じ考えを抱いた人と巡り合えるとは」
私は彼女と出会って「私は初めて仲間に出逢えることができた」そう、深く々々思うことが出来ました。そして、私は彼女へと駄目元で一つ、訊ねました。
「宜しければ、私と一緒に死んでは頂けませんか」
通常であれば此の様な申し出、一つ返事で断るものです。併し、彼女は此の申し出を微笑みながら、「丁度、私独りで寂しかった所だったのです」と快く了承してくれました。こんな有り触れた人間の私と死を共にして頂けるだなんて…彼女はまるで、迷える山羊の前に現れた、天使の様な御人でありました(若し、彼女が天使でなく堕天使だとしても私は一切構いません)。
死を共にする者として、私は自身の名(蔵田)を明かしました。すると、彼女も山へと叫び、帰ってくる山彦の様に答えてくれました。
「私は綾風と云います。どうぞ宜しくお願いします、蔵田さん」
そう云う綾風さんの顔には優しき微笑みが浮かんでおりました。併し、其の微笑みの中に、何処か哀しげな心が見え隠れしている様な…そんな気がして成りませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます