【憂悶手記】

文屋治

第一の手記

 一


 私はとある小さな街の工場で慎ましく働いておりました。決して己の欲を出さず、常に周りの空気を読み、少ない給料でありながらも文句の一つも云わず、つい溢れそうになれば其れを口内でグッと噛み締め、唯々手を動かし、絡繰からくりの様に勤勉に働いておりました。しかし、私の一個人の努力は無残にも報われる事なく、勤め先の工場は倒産してしまいました(工場が潰れた原因は十中八九、工場長の酷き賭博癖が原因でありました)。此れはつい二日前の事です。両親を早くに亡くし、此れと云った頼る事の出来るあても持ち合わせていなかった私は必死になって次の職を探し、彼の街此の街、さなが戦場いくさばを駆ける足軽の如く、転々と致しました。ですが、私如きの男には幾らでも替えが居る様で、何処も私を雇ってはくれません。

 掌から職を溢してしまってから二週間程立った頃でありましょうか。最初の頃は額に汗流し、血眼になって店々へと雇ってもらえるよう、頭を下げに行っていたのですが。もう、今では其の様な事もしてはおりません。

 私の心(若しくは、感情)が燃え尽きてしまったのです。

 もう…本当に、疲れきってしまったのです。

 文句の一つも云わず、一生懸命、莫迦ばかの様に真面目に生きてきた筈なのに、此れ(今の現状)が其の結果です。とんだ理不尽極まりなく、何の面白みもない苦悩劇です。全く生きようと云う気概が起こりません。いえ、そもそも、此れ程迄にせつな私にそんな気概など果たしてあったのでしょうか。

 分からない。

 わからない。

 ワカラナイ。

 もう、何も分かりません。仮令たとえ、己が身の事であろうと、己が心の事であろうと、分からぬものは分かりません。唯々過ぎ去って往く、憂悶の日々の中で、私はまるで、全てを呑み込む夜闇にでも成れ果てたかの様な思いを抱くのでありました。


 二


 生きる理由を失い、其れ以前に、生きて往く事の出来なくなってしまった私は「せめて、最期だけは…自分の思いを貫こう」と朝早くから鞄を肩に掛け、私家しかを出て、最寄りの駅から列車に乗り込みました。ガタンゴトン々々々々々々ガタゴトンと私は一刻程電車の揺れに身を任せ、持ち合わせの小説を読み更けておりました。すると、そんな最中、私の鼻に嗅ぎ覚えのある匂いが漂って参りました。此れは母なる海、そして、其の海に住む魚や貝共が織り成した、磯の匂いでありました。忙しなく移り変わる、列車の車窓からは活気に満ちた江ノ島と、其れを取り囲む様にして広がる広大な海が見えました。此の江ノ島と云う場所は私にとってとても々、懐かしい場所でありまして、両親が生前、夏の季節になるとよく私を此の江ノ島に連れてきてくれていたのです。

 両親と共に此の地へと来る事は私の数少ない生き甲斐の一つでありました。其れも今では儚い夢ではありますが。

 江ノ島駅へと到着し、列車を降り、駅を出まして。私は深く息を吸い、そして、吐きました。いやはや、此処の空気は何とも美味しいものでありました。いえ、若しかしましたら、此の先何一つの予定のない(いえ、厳密には一つのみしか予定のない)心の余裕が麻痺させていた味覚を元に戻したのかも知れません。

「もし…もし……」

 懐かしの光景に更けていた私へと一人の女性が声を掛けてきました。私は少々驚きながらも声の聞こえてきた背後へと恐る々々振り向いて見ました。すると、私の背後には一人の、鞄の一つも持たぬ、やけに軽装な女性の姿がありました。

「海はどちらへと歩いて行けばよろしいでしょうか」

 私は最後に此の場所に来た記憶(両親と来た際の記憶)を呼び起こし、海のある方へと道を案内してあげました。すると、少女は「有り難う御座いました」お辞儀をし、何処か哀しげな表情を浮かべながらも、私の案内した道の通りに進んで行きました。

「お嬢さん、海へは何をしに行かれるのですか?」

 気になって辛抱たまらなくなってしまった私は道行く女性へと問い掛けました。すると、女性は此方へと振り返り、唯一言、

「楽に成りに行くのです」

 と答えるのでありました。


 三


「楽に…成る……」

 彼女の迚哀しげな表情、そして、此の妙に心に残って消えない一言。私は勇気を振り絞って彼女へと云いました。

「若しかしたら、貴方と私…考えている事は一緒かもしれません」

 私の発した一言に、彼女の顔からは哀しみの表情が消え、其の代わりに驚きの表情が面一杯に浮かび上がるのでありました。

 近くの寂れた喫茶店へと這入り、私は珈琲を、彼女は紅茶を頼みました。

「貴男も自死を…されるのですか……」

 彼女からの問い掛けに、私は珈琲を一口飲み、答えました。

「えぇ、数奇な事もあるものですね。真逆、同じ考えを抱いた人と巡り合えるとは」

 私は彼女と出会って「私は初めて仲間に出逢えることができた」そう、深く々々思うことが出来ました。そして、私は彼女へと駄目元で一つ、訊ねました。

「宜しければ、私と一緒に死んでは頂けませんか」

 通常であれば此の様な申し出、一つ返事で断るものです。併し、彼女は此の申し出を微笑みながら、「丁度、私独りで寂しかった所だったのです」と快く了承してくれました。こんな有り触れた人間の私と死を共にして頂けるだなんて…彼女はまるで、迷える山羊の前に現れた、天使の様な御人でありました(若し、彼女が天使でなく堕天使だとしても私は一切構いません)。

 死を共にする者として、私は自身の名(蔵田)を明かしました。すると、彼女も山へと叫び、帰ってくる山彦の様に答えてくれました。

「私は綾風と云います。どうぞ宜しくお願いします、蔵田さん」

 そう云う綾風さんの顔には優しき微笑みが浮かんでおりました。併し、其の微笑みの中に、何処か哀しげな心が見え隠れしている様な…そんな気がして成りませんでした。

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