第4話 【回想】萩恒家の若い当主はとても優しい


【過去編】四年前~三年前。さぎり十六~十七歳、崇史十八~十九歳、希海三~四歳。



    ―✿―✿―✿―


 十六歳だったさぎりは、一人、希海のぞみの近くに侍っていた。

 いつでも可愛い主人のため、笑顔を絶やさず、その世話をする。


 そんなさぎりを、萩恒はぎつね家の当主である崇史たかしは、最初からずっと心配していた。


「さぎり。まだ決心はつかないか」

「まだというより、ずっとつきませんよ」

「さぎり!」

「私が希海様から離れたら、お困りでしょう?」


 柔らかく透けるような茶色の髪、緋色の瞳をした見目麗しい十八歳の主人は、苦しそうにその顔を歪め、さぎりを見る。


 この優しい主人は、さぎりに、ここから逃げろと言っているのだ。



    ―✿―✿―✿―


 崇史は以前、さぎりが首まで広がる火傷を負ったとき、土下座をして謝ってくれた。治癒の異能を持つ龍美たつみ家に頼んで、その傷を治してもらうとまで申し出てくれた。


 けれども、さぎりがそれを断ったのである。


「当主になって、まだ二ヶ月ではありませんか、旦那様」

「……そうだ、当主だ。俺が頼めば、龍美家だって」

「若輩の当主に、一族の者はただの二人。衰退しかけの家にございます」

「萩恒家を愚弄するか」

「今、弱味を見せるわけにはまいりません」


 真っ直ぐに見据えるさぎりの蜂蜜色の瞳から、目を逸らしたのは、崇史だった。


 崇史もわかっているのだ。

 六大公爵家の中で、今最も危ういのは、この萩恒家だ。

 他の家が口を出してきた瞬間、この家は乗っ取られるだろう。

 そうならないのは、五家が互いに睨みを利かせているから。

 しかし、萩恒家から、龍美家に助けを求めるならば、話は変わってくる。


「龍美家は、正直、良い噂はお聞きしません」

「……だが」

「今、あの家を頼ることが、萩恒家にとって何を意味するのか、旦那様はご存知のはずです」

「さぎり」

「お気持ちだけいただきます。旦那様、有り難うございます」



 そうして、申し出を断ったあの日から、崇史は諦めず、何度もさぎりに問うてくる。

 逃げるつもりはないのかと。

 治癒を受けるつもりはないのかと。

 そして、さぎりは断る。

 これもいつものことである。



 それを繰り返したある日、崇史は、縁側で、希海に膝枕をしながら、さぎりに尋ねた。


「さぎりはなぜ、ここに居てくれるのだ」


 暖かい陽気の中、サラサラの髪を揺らし、すやすや眠る、四歳になったばかりの希海を見ながら、さぎりは笑う。


「幸せだからです」


 虚を突かれたように目を見開く崇史に、さぎりはただ、穏やかに微笑んだ。

 眠る希海の髪を撫でると、希海は寝ぼけているのか、嬉しそうに、くふふと笑っている。


「この家は、何も持たない私に沢山の物をくれました。その中でも大きなものが、お二人の健やかな様を見守ることです」

「……さぎり」

「この穏やかな時が、私には何にも替えがとうございます。ですから、私のことは、気にされなくても大丈夫です」


 希海を愛おしげに見つめるさぎりに、崇史は緋色の瞳にじわりと涙を滲ませると、さぎりの肩に頭を埋めた。

 さぎりは驚いたけれども、崇史が泣いていることに気がついて、そのまま彼の頭を、希海にするように優しく撫でる。


「大丈夫。大丈夫ですよ、崇史様」


 なんとなく、旦那様とは言いたくなかった。

 十八歳にして、頼るべき大人達の居ない中、当主に祭り上げられた人。

 彼は、さぎりなんかより、ずっとずっと大変な筈なのだ。ずっと辛い筈なのに、その誠実さ故に、さぎりなんかのために、更に苦しんでいる。

 この人が肩に背負った物を取り払ってあげたいと、心からそう思ったのだ。


「崇史様は、一人ではありません。頼っていいんですよ」


 そう言うと、崇史はさぎりを抱きしめてきたけれども、さぎりは抵抗しなかった。


 嗚咽の中、済まないと、孝史はずっと、さぎりに謝っていた。

 力がなくて済まないと。

 何もできなくて申し訳ないと。


「済まないより、有り難うの方が、私は好きです」


 そう伝えると、崇史はふと、笑うような声で言った。


「……さぎりに好かれたいから、有り難うと言うことにする」


 耳を掠めるように言うのは、なんだか卑怯ではないだろうか。

 幸せを噛み締めていたさぎりは、不自然に早鐘を打つ心臓を抑えながら、そのことだけは、不服に思ったのだった。




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