Ⅳ
ちょっと大人びてはいたけれど、久しぶりに会ったユキちゃんは、時が止まったかのようにほとんどあの頃と変わらない姿で、そこにいた。可愛い、というか、美しく感じた。残酷なまでに。
ぼくの心は、早くもいろんな感情に引き裂かれて、掻き乱されてしまっている。
「やっほー、久しぶり」
くりくんから、あの頃と携帯番号変わっていないから、連絡取ってみろ、会いたがってるぞ、と言われなかったら、きっと一生、連絡取ることはなかったろうな、と思う。
やっと会えたね、裕一くん。少し、背が高くなった気がするけど、気のせいかな。
ユキちゃんと公園に続く坂道をのぼる。
どうやら、この坂をずっと登った先の団地に、ユキちゃんは住んでいるらしかった。手前に公園があって、そこでゆっくり話がしたい、ということらしい。
でもそれ以上に、ぼくは、ぼくは初めて、人生で初めて、ユキちゃんと手をつないで歩いている! その事実に、もはや頭が蕩けそうになっている。身体がふわふわして、うまく大地を踏みしめられない。
こんな、こんな夢みたいなことがあっていいんだろうか。あっていいんだよね。そうだよね。これを幸せと呼んでいいなら、永遠に続けばいい、とさえ思う。
その一方で、そんなに単純なことで舞い上がっている自分を、どこか滑稽だと、引いた目で見ている自分もいる。犯罪者が、屑の分際で何いい気になってんだ、お前は不幸なままでいるのがお似合いだ……自己否定を繰り返す心の声も止まない。
また一方では、冷静にこれから何が起こるのか、何が待っているのか俯瞰しようとしている自分もいる。こんなにあっさり手をつないでいるなんて、この後何か悪いことでも起きるんじゃないか。
ぼくの頭はひたすらぐるぐるしっぱなしで、ユキちゃんに何を言われても「うん……」とか「へぇ……」とか生返事しかできない。時折、「しっかりしろ自分!」と喝をいれるように、右手で尻の肉をつねってみたりする。つねってみるけど、何の効果もない。左手に伝わる感触が、温もりが、すぐにまた脳を蕩けさせてしまう。
自分のことながら、何だかバカみたいだな。
裕一くんと手をつなぐ。裕一くんの手は相変わらず繊細で滑らか、かと思ったけど、ところどころざらざらしている感じがするのは、やっぱり、仕事をするようになった人の手になっているんだな、と感じた。
「私たち随分、大人になったよね」
「うん……」
「歳とっちゃったもんね。もうおばさんだよ、私も」
「へぇ……」
私が何を言ってもこんな調子。そういえば、反応薄いことで有名だったっけか。かと言って別に、塩対応している感じでもなさそうだし。表情も何だかホワンとしていて、どういう感情なのかいまいち掴みどころがない。
裕一くんって、こんな人だったなぁ、という感覚を、私もだんだんと思い出していた。思えば、あの事件があったのが夏休み間近の七月初旬くらいの頃のことだから、期間で言えば一年の中の一学期くらいしか、裕一くんとはまともな交流がなかったことにはたと気づく。
よくもまぁ、それくらいの短い付き合いで、この男と子どもをもうける仲になったよね。相当、あの一学期の夏が、濃かったのかな。
そんなことを振り返っているうちに、公園はもう目と鼻の先だった。
「そこのベンチに座る? それとも、ブランコにしようか」
ブランコがいい。か細い声でそう言っているのが聞こえた。
ブランコに座ると、ユキちゃんが
「最近、どう?」
と聞いてくる。
「ぼちぼちかなぁ」
特にいい言葉が思い浮かばなくて、そう答えた。
「私ね」ユキちゃんがブランコを漕ぎ出した。「ずっと、裕一くんに会いたかったし、正直会いたくないなっても、思ってたよ」
どっちなんだろう。ぼくはそういう言葉遣いをされるのが、割と苦手だ。
「なんで、会ってくれたの?」
「そうねぇ」ブランコを漕ぐのをやめて、ユキちゃんはぼくの方を見ていった。とても、スッキリした顔で。
「今日で全部終わりにしようと思って」
ドキッ、とした。それから、悲しみがとめどなく湧きそうになるのを堪えられなくなるまで、時間はかからなかった。
「せっかく、会えたのに、なんで」
「ねぇ、裕一くんはさ、何でいきなり会おうなんて言ってくる私に、裏があるんじゃないかとか、そんな都合がいい話あるのかなとか、思ったりしないんですかね」
「それは、ちょっと思ってるよ。思ってるけど」
「思ってるけど? 何?」
「……手をつないでくれて、嬉しかったから」
あぁ、何だか随分、ぼくは正直な気持ちを喋りすぎている気がするぞ。こんなに自分の気持ちをペラペラと喋る人間じゃ、普段はないのに。
「へぇ、そうなんだ。嬉しかったんだ」
ユキちゃんはニコニコしてまたブランコを漕ぎ始めた。
「そう思ってくれて私も嬉しいな。裕一くんって結構ポーカーフェイスなんだね」
ポーカーフェイスなんかじゃない。未だに、こういうシチュエーションで、どういう表情したらいいか、わかんないだけなんだ。
「あのね、私、さっさと結論言っちゃいたい人なの。だから、裕一くんの気持ちとか考えないでもう、言っちゃおうと思うんだけどさ。
私、娘がいるの。知ってた?」
その話実は、隆一くんから既に聞いていた。子どもと二人でZZ公園の近くの団地で暮らしている。そこまでは聞いていたから、そこに驚きはなかった。
「で、うちの子、十二歳なんだけどさ、あなたは血の繋がった父親なの」
……はい? 一瞬、耳を疑った。
そして、瞬時に脳が急速回転して、どういうことをユキちゃんが言おうとしているのか、何となく察してしまった。
「裕一くん、観覧車で私とセックスしたの、覚えてるでしょう。
あの時なの。あの時お腹に子どもができたの。他の男とはセックスしてない。だから、正真正銘あなたの子どもで間違いないの」
やっぱり、そういうことか。それにしても、何で産んだんだろう。いや、それを聞くのはよそう。そんな質問、ぼく以外の沢山の人に聞かれて、うんざりしているだろうから。
「何で産んだか、聞かないんだ。それとも、聞かれるの嫌かなとか、気ぃ遣っているわけ?」
「そりゃ、そうだよ……聞けないよ……」ユキちゃんに自分の心を何もかも読まれているようで、少し怖い。
「私ね、裕一くんに見て欲しかったの。私のドロドロ、ぐちゃぐちゃなところを。キレイなところじゃなくて、汚いところも全部、ありのまま、見てほしいの。だから、妊娠しても堕そうなんて思わなかった。むしろ、都合がいいと思った。また裕一くんに会う日が来たら、この事実突きつけて重たい荷物全部背負わせてやろうって思った。で、今日会えた。
全部終わりにしようって、そういう意味」
一昔前のぼくなら、「訳が分からないよ!」と喚いていたに違いない。でも、そこはぼくも、三十手前になって少しは大人になったんだと思う。ぼくはしっかりとユキちゃんの目を見つめてみた。ユキちゃんの中にある底なしのドロドロ、ぐちゃぐちゃを想った。
ぼくは、ユキちゃんそのものを、ちゃんと見れたことがなかった。知らなかった。知ろうともしなかった。目を見つめるのさえ、怖かった。逆に自分も覗かれるんじゃないかって思うと、怖くてたまらなかったんだ。
「ぼく、父親になってもいいよ。その子の父親、今更出来る気がしないけど、責任だけは取らせてよ。重たい荷物だけど、ぼくが全部背負うから。だから、その子に会わせて欲しい」
そして一息ついて、ありったけの想いを放った。
「これで終わりだなんて、言わないでほしい。ぼくと一緒に暮らそう。 ぼくはユキちゃんが好きだ。愛してる!」
自分でも、淡々と力を込めてここまで話せるだけの強さを持ち合わせているのが意外だった。でなければ、突然のショックで頭のネジが吹き飛んで、一周回って冷静になっているのか。
「うん、やっと私の目を見て言ってくれたね。それは、嬉しい。ちゃんと気持ちは受け取っておく」
その時の、ユキちゃんの微笑みが、また、残酷なくらい美しくて、何だか背筋がゾクッとした。
「でも、無理。あなたは父親にはなれないわ。それとも、そんなに好きならもっかい私とセックスしてみる?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます