Ⅲ 河合有希
もしもし……
うん……そう……そうなんだ、へぇ……
うん、わかった。じゃあそうして。ええ……はい……はい……はーい。
「なぁに、ママ」
私が呼ぶと、娘の
「驚かないで聞いてくれる?」
娘は黙ったまま、落ち着かない様子で下を向いたりモジモジしたりしている。
「パパに会える、ってさ」
娘は露骨に顔を
「はぁ? 何それ?」
「会いたくないよね。そうしようかと思って優亜にも聞いてみようと思ったんだけど」
……。お互いしばらく、沈黙した。それから、娘は後ろを振り返って何も言わず部屋に戻り、
「テキトーにセックスでもしてろよクソババァ!」
と捨て台詞を扉越しに吐いて、そのまま引きこもりモードに入ってしまった。
ここ数年間、娘は学校に通っていない。
その代わり、家事はこまめに手伝ってくれるし、自分のことは自分でやるようになった。私は、次第にそれでいい、と思うようになった。娘は同学年の子と比べて驚くほど無欲で、家にいてもほとんどおねだりをしない。食べる量も少ないし、ご飯を食べるとすぐ自分の部屋に引きこもる。スマホはいじるけど、ゲームに課金したり推し活に励むなどということもしない。その代わり、いつも誰かと連絡を取っていて、聞いてみるとどうやら同じく不登校になったお友達らしかった。
私は私で、日々お金をどうやりくりしていくか、どうやって日銭を稼ぐかで、一杯一杯になっていた。新型コロナのせいで収入が途絶えた時、わずかな補助金で生活していくのが苦しくて、首を括ろうかと思った時もあった。でも、娘と一緒に暮らしているとそうもいかず、結局すぐにパートを見つけた。以来、つらくなったら働く、働いて糊口をしのいで、それで何もかも忘れようとするのがクセになった。口座に振り込まれたお金の残高だけが、私を癒すようになった。
いろんなつらいことがあった。
裕一くんの子どもを宿したことがわかって、産む決心をつけた時も、親は当然だけど堕ろせの一点張りだった。産婦人科も「そうは言っても、母親になるって大変なことなのよ」とやんわり私の意志を否定するばかりだった。だから、法的に堕ろせなくなる二十一週六日を過ぎるまで家出を繰り返した。出産費用もゴリ押しで親に出させた。
そこまでして、何で産もうとするの? 親だけでなく、友達にも何度も聞かれた。
少年院にいる父親を、妄想や幻想じゃない、現実に引き摺り下ろしたい。私を見ろ。私を見てから、オナニーしてみろ。そう、これは新しい命を祝うための出産じゃなく、牢獄にいる父親を呪うための出産。これが、その当時のありのままの気持ちだった。
けれどもそんな気持ちは、陣痛が激しくなるにつれてヒビが入り、私の産道を通って優亜が生まれ落ちたその瞬間には、モロモロと崩れ去っていた。
娘が、あんまりにも可愛かった。
優亜が生まれ落ちるまで、死ぬほどしんどかった。
その痛みを、苦しみを、あっさり乗り越えて、新しい命を産み出してしまった。
そこからだった。ある事実が私の中に降りてきて、悟りを開いたのは。
私は私自身の現実を生きるより、他にない。死ぬまで、ずっと。
そういえば、キェルケゴールの『死に至る病』を最近また読むようになった。
もちろん最初のきっかけは高一の時、くりくんに読むように勧められて渋々読んだ。結局難しくて読めずに放り出してそれっきりだったけど、しばらく経って色々頑張った末に大学に進んで、今度は宗教哲学のゼミの先生に読めと言われたのが二度目。その時は改めて、じっくり読んだ。こんな本を裕一くんは読んでたんだって随分感心したけど、それ以上に読んでいて印象的だった一節がある。
「きみは自己を食い尽くしてしまっているね」
「いえ、そうすることができないところにこそ、私の苦しみがあるのです」
恋人と死別したか、残酷な別れを経験したかした一人の少女がいる。その子は「彼がいないその先の人生を、私はどう生きたらいいの?」と焼け付くような問いに苦しんでいる。まさに、絶望の渦中にいる彼女に向かって、「きみは自己を食い尽くす」ほどに絶望の中にあるね、と仮想の誰かが告げる。その返しとして、キェルケゴールは彼なりに想像を膨らませて、「いえ、そうすることができないところにこそ、私の苦しみがあるのです」というセリフを考え出したのだろうと思う。
でも今だからこそ、この際はっきりと言わせてほしい。
馬鹿馬鹿しい。
私はそんなことで、絶望なんかしない。
今だって、裕一くんがいなくたって、一人で優亜を育てていかなければならなくたって、私は生きているし、生きていかなくちゃいけないし、現に生きていけているもの。
絶望なんかしてる暇は、私にはない。
私のiPhoneにSMSが届く。
もう駅に着いて、こっちへ向かっているらしい。
「じゃ、パパに会ってくるから、優亜はお留守番ね」
返事は、返ってこなかった。
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