B  二〇二三年

Ⅰ 白川裕一

「白川さん、そろそろ一六時なので、キリのいいところで作業終わりにしましょうね」

 ……はい。


 いろんなことがあった。

 そうとしか、言いようがない。今日という今日まで、何で自分が生きちゃっているのか、全く分からない。

 ぼくは少年院送りになった。殺人未遂。これが、ぼくの罪。

 何故かほっとしている自分がいた。隆一くんは死ななかった。未遂で終わった。殺してしまったならもう言えない沢山のことがある。言える日が来るとは思わないし、会えるとも思っていない。会って謝れたら自分のしたことが帳消しになるなんて、もちろん思ってもいない。けれど、それでも、ぼくに殺されないで済んでくれてよかった。不思議だけど、今はそう思っている。

 少年院にいる間に、いろんなことがあり、いろんなことが分かってきた。

 まず、極度の鬱状態を少年院送りになってから三年の間経験した。まともにプログラムを受けられず、食事も摂らないで寝てばかりいるぼくを見かねた教官がわざわざ心療内科を呼んできてくれた。医師の診断を経てようやく、ぼくが心の病と同時に、発達障害を抱えていることが分かった。担当してくれた医師は、ぼくにこう言ってくれた。

「よく高校まで通えたもんだよ。つらかったでしょう。君はもう頑張りすぎるくらい頑張っていたのだから、これからはもう頑張らなくていいと思うな」

 その時、少年院送りの審判が下った時も、拘置所でただじっとするしかできない夜も流れることのなかった涙が、ようやく流れた。これまで意地を張っていた何かが、ほろほろと溶けていくのを感じた。

 それから少しずつプログラムに参加できるようになった。本を読むのすら最初苦痛だったけれど、何とか読めるようになって、いろんな本を読んだ。その頃に、図書コーナーにたまたま置いてあった子ども向けのLGBTQ+関係の本を読んだ。

 不意に、隆一くんのことを思い出していた。彼はぼくのことを好きだと言ってくれた。彼は、LGBTで言うところのゲイだったのだろうか、バイだったのだろうか。聞いてみないと分からない。確実に言えることは、ぼくが彼に対して気持ち悪いと思ってしまったこと、言ってしまったことそれ自体、罪であり、ホモフォビアだった、ということだった。本を抱きしめながら、ごめんなさい、ごめんなさい、とぼろぼろ泣いた。泣いても許されないけど、獄中の身のぼくにはそれしかできなかった。

 ぼくは少しずつ、自分が何をしたのか、そして、どう償ったらいいのかと言うことを考えるようになった。相談できそうな大人に話してみたこともある。ただ、決まって、こう言うだけだった。

「あなたが健康に生活して、幸せになることの方が大切よ」

「自分の人生をこれからどうしていきたいかの方を、一緒に考えてみない?」

 はぐらかされていると思った。ぼくは死刑に値する罪を背負っているというのに、どうせ少年院から出たって生きていける場所なんかどこにもないのに、何でこの人たちは、健康でいてくれとか、幸せであれとか、そんなくだらないことをぼくに求めてくるんだろう。

 ぼくに人生を生きる価値なんてないんだ。

 なのに、死ねないから、死なせてくれないから、おめおめとこうして死んだように生命を維持していくしかないんだ。

 それがたまらなくつらいのに、しんどいのに、この人たちは何も分かってくれない。

 その思いは、少年院を出た今でも根に持っている。


 そう言えばこんなことがあった。少年院にいた頃、ぼくがまたあたかも贖罪の儀式であるかのように例のLGBTQ+の本のページをじっくりめくっていた時だった。

「面白いか、それ」

 毛先が金髪のいかつい顔をした男子がそこにいた。ぼくのような人間とは対極の、決してクラスでは話しかけないようなタイプの。

「面白い、というか、自分が知っておかなきゃって思っているから、読んでいるんだよ」

「ふーん……真面目なんだな」

 そう言って、彼はぼくのすぐ隣に座った。一瞬驚いたけど、黙って彼のなすがままにさせてあげた。けど更に、もっと驚くことがあった。やおら彼の口から

「俺、ゲイなんだけどさ」

とあっさりした口調でカミングアウトの言葉が出てきたのだ。

 どう返していいか分からなかった。いいよ、偏見ないし、とか返せればいいのだろうか。それにしてはぼくは、偏見で凝り固まっているし、偏見で人を殺しかけた人間だ。そんな言葉、間違っても言うことはできない。

「そんな本に書いてあることよりさ、リアルの人間の話聞いた方が、勉強になると思わない?」

 そう言われてようやくぼくは、人の目を見て話すのが苦手だったけど、ようやく彼の目を見て、この人と話そうと決めた。

「何でも聞いてよ。何でも答えるから」

 それから、ぼくは彼に沢山質問したし、彼自身の話も沢山聞かせてもらった。申し訳ないことに、今となってはもうほとんど覚えていない。少なくとも、彼は悪くない、と思える点が多い話だった印象はある。彼もまた、恋のもつれで身近な人を傷つけていた人だった。ただ、とてもあっさりとオープンに話す彼の姿に心打たれるものがあったのか、ぼくもまた、次第にぼく自身の罪について正直に彼に打ち明けるようになっていた。

 そして、一通りぼくの話を聞いて、返してくれた言葉があった。

「Kくん(隆一くんのこと)ゆーたっけ。そいつ普通にクズやな(笑)殺しちゃって正解でしょ」

 正直、心が軽くなった。

 軽くなったと、感じてしまった。

「でも、Kくんにぼくがしたことは間違っていたし、その……」

「いやだってさ、おかしくね? お前どうせノンケだろ。『Yちゃんのこと好きだ』ってお前の気持ちを弄んでたのKじゃんなぁ。付き合ってるふりして体操服盗んだり、ヌード写真撮って渡してくるとかフツーにキショいんだが。

 ノンケの恋路を邪魔していい理由に、ゲイだから、ってのはならねぇぜ」

 うん……。ぼくは黙ってしまった。それ以上、何も言えなかった。慰めてくれたのはありがたかったけれど、同時に言葉にならないモヤモヤでいっぱいになりそうだった。そんなぼくを察してなのか、彼は続けてこう言った。

「ゲイ、って言えないうちはさぁ、人の恋愛に合わせているフリ、付き合ってあげているフリ、何でも分かってあげているつもりになってるもんなんだ。でも、裏返せば全部エゴなんだよ、そんなの。

 お前はさぁ、ホモのくだらないエゴに振り回されたくらいに思っときゃいいんだよ。誰もお前を責めない。つらいのはお前自身の心じゃんか、なぁ」

 そうだ。つらかったのは、ぼくの心だった。でも、その時はうまくそう言葉にできなくて、ただひたすら、泣くしかできなかった。


 B型作業所から自分のアパートへ送迎してくれる車の中で、誰とも話すこともなくぼんやりしていると、不意に少年院時代のこうしたエピソードが蘇ってくる。

 そしてその度に、単調だけれど安定した今の生活から逃げ出したいと思っている自分と向き合わされる。ぼくはこんなところにいない方がいい。こんなところにいるべきじゃない。でも、こんなところにしか、自分が生きていける居場所がない。そう思ってはいつも、自分の過去の過ちと現在の無力を呪った。


 そんなぼくの日常が揺らいだのは、ふとしたきっかけだった。

 街を歩いていた時だった。

 その日はやたらメイン通りが賑やかだった。赤、青、緑、黄色……やたらいろんな色の風船でデコレーションされたトラックから大音量で聞いた事もない洋楽が流れていて、その音楽に合わせて踊りながら道路の真ん中を練り歩いている人たちがいた。

 パレードのようだった。カラフルなドレスを着たドラァグクイーンと思われる女性が楽しげに踊っているのを見て、知識が乏しい自分でも、それがレインボーパレードだと言うことが分かった。歩いている皆が思い思いのプラカードを掲げ、小さなレインボーフラッグやトランスジェンダーフラッグをひらひらとなびかせていた。

 ぼくは歩道に立って、パレードをしばらく眺めていた。すると、プラカードを持っている人たちに混じって、見覚えのある人がそこで旗を振っていた。

 隆一くんだった。あの頃の面影がぼんやり残っているから、見間違えようがなかった。彼は旗を振りながら、パレードの列の整理をしていた。しかも、車椅子に乗りながら。

 ぼくは思わず、歩道から彼の姿を追っていた。声をかけたくなった。でも、言葉にならない。でも、追いかけた。

 そして、目が合った。

 向こうから、手を振ってくれた。

「裕一くん!」

 それだけ叫んで、手を振って、また列の整理に戻っていった。

 それっきりだった。

 それ以上は、近づけなかった。

 でもぼくは、何とも言えないうれしさを感じていた。

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