Ⅱ
1
アレは隆一くん、久利川隆一くんだ。
「君に良いプレゼントがあるんだ」
そうですか。で、なんでしょう……。ぼくは少し怯えながら答える。
「これなんだけど」そう言って、隆一くんは青のスクールバッグから何やら黒い怪しいビニール袋を取り出して、こっそりぼくの机の下に忍ばせてくる。
「呉れ呉れも」
彼はニヤついた目のままぼくを見つめて、それから、耳元に口を近づける。悪寒が走った。
「開けるのは家に帰ってからな。ハッピーバースデイ」
生温かい息がキモチワルイが、彼が言いたかったのはそれだけらしい。早口で告げたいことを告げた後は、彼は席に戻って平然と取り澄まして本を読み始めた。『死に至る病』……本当に持ってたんだ。でも、見た感じ新品だ。さしずめ、読み始めてからそんなに経ってないんじゃないか。ぼくより頭のいい彼のことだ。優等生らしさを演出しようと、今になって似合いもしないテツガクショなんてものを買って読んでいるんだ。そうに決まっている。
ぼくは違う。ぼくはこの書物を、キェルケゴールを尊敬し、崇拝すらしている。何故だかは分からない。何が書いてあるかも全部は分からない。けれど、ただ、生涯かけて追い求めたい何かに、読んでいて駆られる。ぼくの胸を締め付けて離さない「絶望」について、いつか来る死について、そして、毎分毎秒身体を圧迫し続ける生きづらさについて、ぼくが思い悩んでいること全て、この本は何か真理を語っている。早い話が、この本でぼくは哲学に目覚めた。とりわけ、この一小節はぼくの胸に刺さって離れることがない。
絶望は、横たわって迫りくる死に苦しめられながらも死ぬことができないという瀕死の状態と、似たところがじつに多い。死に至るまでに病んでいるということは、このように、生きることへの希望があるわけでもないのに死ぬことができないということなのである。
こんなに絶望について、美しくまた哲学的に描かれた書物をぼくは未だ知らない。何故自分が生きているのかも分からないままただ学校に通い、何の意味もなくただこの日々を過ごさなければならない苦悩、ぼくの苦しみを、これだけ感動的に取り扱っている書物は。
多分、この高尚な書物は、隆一くんなんかには理解出来ない。少なくとも、『死に至る病』を読んでいるぼくに本をダシにしてあんなつっかかり方はしない。クラスの皆が死ねばいい? 呆れたと言うか引いた。しかも、続けて何をいうかと思えば、クラスの男子の悪口だの、女子の悪口だの。正直聞くに堪えなかった。クラスで一、二を争う頭脳の持ち主とはいえ、こんなつまらない事を考えている人間なのかと思うと、彼に対するライバル心が冷めていくのを感じた。ユキちゃんの悪口をある事ない事つらつらと言い始める段になっては、ぼくは怒りすら湧いた。何でこんなヤツが、ユキちゃんの隣の席なんだろう。何でこんなヤツが、平和なぼくの勉強時間と読書時間を苛むんだろう。何でこんなヤツが、ユキちゃんについて、あれは裸を見られて喜ぶ女だとか、簡単に股を開く女だとかいうデマゴーゴスを、のうのうとぼくに吹きこんでくるのか! 否! 否! 否! いくらユキちゃんと君が親しいからって、ぼくは君の本性を認めない。その卑しい目で、ユキちゃんを汚さないで貰いたい!
「……ねぇ、ユッキーさ……」
後ろでヒソヒソ話し声が聞こえる。聞こえない聞こえない。
「コレこっそり前に差し込んどいてくんない」
……またか。隆一くん。君のヒソヒソ声はデカイからやりたい事は皆ごっそりバレてるんだよ。
後ろで今度は女の子のため息が聞こえる。ダメだ。心臓に悪い。ドキドキしてくる。ああ駄目だ集中出来ない。全くどういう意図なんだ! 何度もユキちゃんを変な文通の使いによこしやがって!
そうなんだ。ぼくに変な絡みをしてきて以来、隆一くんは一方的に、授業中もかまわず手紙を送りつけてくる。しかも、三十秒以内に返信をよこせとご丁寧にも手書きで寄越してくる。
最初は個人情報を聞き出すものだった。生年月日はいつだい、何処に住んでいるの、好きな本はなにか教えてよ、『死に至る病』以外でさ……。これが、彼の友情表現なのだと思った。無碍には出来ないので律儀に返信を書く。そして配られたプリントを後ろに回す隙だったり、教師が後ろを振り返った隙を狙って、ユキちゃんに渡す。ユキちゃんが隆一くんに渡す。だから、ユキちゃんはぼく達の手紙のやりとりの媒介人というわけだ。ユキちゃんはどう思っているんだろう。未だに聞けていない。
ぼくは椅子に差し込まれた手紙を後ろに手を回して受け取る。最近の手紙はというと、こんなキモチワルイ内容ばかりだ。
2
週末にXXランドに行こう。君とデートがしたい。手を繋ぎたい。
男と手を握るのは嫌かい。そうやって壁が出来てしまうのは好きじゃない。
壁があっては、その先どころか、百メートル手前にすら進めないからね。
3
これ、手紙、くりくんから。
「あ、ありがとう、河合さん」
ねぇ、今週末どっか行くの?
「え? 何処にも、行かないよ。行く予定、ないし」
だったら、くりくんのデートには付き合ってあげなよ。あと、あたしもいくから。
「え?」
あたし、夕方くらいに遅れて行く。着いたら電話するから、それまで帰らないでね。
「そ、そんな、え? か、河合さん?」
黙っててごめんなさい。本当はこっそり読んでるんだ。だから、電話番号も全部知ってる。今週末会おうね。じゃ。
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