死に至る病

唯野水菜

A  二〇一〇年

   1


 あっ……ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……あぁ……あぁ……ユキちゃん……あぁ……あぁ……あぁ……あっ……あっ……あぅ……あっ……ユキちゃん、ユキちゃん、ユキちゃんッ! あっ……あっあっあ……あっ……!


   2


 俺は裕一のことが好きなんだと思う。多分、裕一は俺のことを友達とも何とも思っていないかもしれないけれど。こんな事言うと皆驚くだろうし、俺を変な目で見る連中も出てくる。だから表には出していない。裕一は俺にとっては高嶺の花なんだ。


 裕一に関してクラスの皆が抱いている印象は概ねこうだろう。

 H県立NN高校一年、白川裕一。クラス一、いや、同学年一の屑男。

 分厚い黒縁メガネ。ボサボサ頭(しかも掻き毟る癖のせいもあってよくフケが落ちる)。よく洗濯もアイロンがけもされてないであろう、着回しの制服。黙っていても足から漂う悪臭。まるで腐った乳製品のような体臭を撒き散らす公害。不潔。いつも自分の教室机に引き篭って訳のわからない本を読んでいる。そしてしょっちゅう爪を齧る。目付きぼんやり。もそもそ何喋っているのか分からない声。貧乏ゆすりが酷い。情緒不安定。冴えないヤツ。根暗男。昼食の時間いつも食べては吐いてを繰り返している。厳しく注意してもそっぽを向く。人を見下したような目つきさえする。人の話を聞かない。そもそも話しかけても反応が鈍い。突然独り言を言い出す。加えてニヘラニヘラした気持ち悪い笑み。奇人。取っ付きにくい。話しかけづらい。何考えているのか分からない。ただそこに居るだけでキモチワルイ。

 やせ細った軟弱な体つきで体力がない。スポーツは何やらせてもダメ。準備体操でペアになりたくない男子ナンバーワン。万年ハブられ要因(チームにいると必ず負けるため。補欠ですら無い)。あるいは罰ゲームの格好の材料。ただし絡んでも全然面白くない。ギャグも言わない。空気も読まない。ちょっとゴツくだけで暴力だと喚く。普段無口でいて、口を開いてもいちいち気に触ることしか言わない。人をネガティブにしかさせない。基本臆病。どうでもいい理由をくどくど並べ立てる。女々しい。男らしさのかけらもない。元気がなければやる気も無い。人と仲良くする気もない。コミュ障。反抗的な目つきや態度だけは一丁前。ぶん殴りたくてもぶん殴る価値もない屑。存在そのものがキモい。

 でも、勉強だけは出来る。中間と期末試験の成績では常に十番以内に彼はいる。

 だから多くの人間が彼を勉強だけが取り柄のオタク人間だと思っている。そうして誰もが、心の中で激しく嫌悪する。視界に入るだけでゴミか目障りか悪霊か何かを見たとでも言うかのように、顔をしかめ、目で軽蔑し、口でいじめ、体全身でもって大げさに避ける。もしくは興味を示そうともせず徹底して無視をし、空気以上の扱いをしない。

 勿論、俺はそんなところに彼の魅力を見ていない。彼がオタクだから素晴らしいとは毛頭感じてない。かと言って、今まで列挙した悪評が俺の裕一に対する評価を少しも減じさせるものでも、全くない。一切ない。では、俺が彼に惚れているところはどこか。

 一言で言えば、繊細さだ。

 まず、肌。裕一は実に肌がきれいな男だと思う。実に手触りの良さそうな白い肌をしている。腕や首筋には薄く青い血管も浮いている。深窓の令嬢のそれを、裕一は持っている。それがたまらなく好きだ。俺は裕一の斜め左後なのだが、時々授業に集中出来ないときは、大体彼のうなじに見惚れている時だ。

 それだけではない。彼は、他の男連中にない繊細さを持っている。字の美しさだ。初めて、裕一が授業で黒板に文字を書いたのを見た時のことは今でも忘れられない。黒板を見ながら思わず持っていたシャープペンシルを床に落としてしまった程だ。そのチョークで描かれた軌跡が消えるのが惜しいと思ったのは、後にも先にもなかった。以来ずっと、裕一が教壇に立つのがひとつの楽しみになっている。どんなにウケ狙いの、あるいは奇抜さや優美をを誇らんとする黒板の落書き芸術も、裕一のチョークで描く文字一つに叶いやしない。断言していい。英語の時間に裕一に黒板に立つよう当てられると、俺はもう悶えて、小躍りをしたくなる衝動に駆られさえする。

 だが、最も彼の繊細さを際立たせているものは、彼の恐らく愛読書だ。『死に至る病』。哲学書! プラトンでもデカルトでもなく、キェルケゴール!

 残念ながら、俺は哲学には興味が無い。合わないというより、煩いのだ。難しいことを複雑なまでに並べ立てて、高いところから、己が神だとでも言いたそうな目線から見下す書き口は、好きじゃない。「だからお前にも当てはまるぞ!」と言いたげな口ぶりには、腹が立つ。偉そうな哲学者よりは、人生の苦悩に喘ぎどん底を這いずりまわる詩人や文学者の方が好きだ。

 ただ、なぜだか知らないが、裕一が『死に至る病』を読んでいるという事実は、俺の胸を爆発しそうなくらい高鳴らせるのだ。

 今でも思い出せる。五月の頭だ。初恋にも似た恋情を胸に、意を決してコンタクトを取ろうとした俺と、猫背のまま黙々と本を読み続ける裕一との最初の会話。

「やぁ」

 ……。

「『死に至る病』なんて乙な物読んでるなんて奇遇だよ。俺も読んでるんだ」

 ……はぁ。

「それ、面白いでしょ」

 ……別に。ただ……

「……ただ、なんだい?」

 これを読んで、いる、時、は、安心、するん、だ。……絶望しているんだ、どうせ、皆、死ぬんだって……

「ふふん」

 そこで俺は手を握って言ったのだった。

「俺と君は同士だね。俺も、クラスの皆が今すぐ死ねばいいと思っている!」


   3


 くりくん

△――――

 有希

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