第一話:天使の言い訳

 意識が浮上する。


 最後に感じたのは、全てを白く塗り潰す光と、骨まで砕くような衝撃だったはずだ。


 なのに、痛みはどこにもなかった。


 ゆっくりと、瞼を押し上げる。


 そこは、どこまでも白い空間だった。床も、壁も、天井もない。上も下も、右も左も分からない。音も、匂いも、温度すらない、完全な「無」の世界。


「――気分はどうかな? 一色トオル君」


 不意に、穏やかな声が響いた。


 声のした方へ顔を向けると、いつの間にか、少年とも少女とも見て取れる、中性的な人物が立っていた。


 腰まで届く、月の光を思わせる銀の長髪。運命の色を映したかのような、深い紫の瞳。そして、その背からは、静かな夜を思わせる、暗い灰色の翼が生えていた。


 性別を超越した、非現実的なまでに美しいその姿は、俺がこれまで描こうとして、一度も描けたことのない「完璧」な存在だった。しかし、その表情はどこか気怠げで、まるで面倒な仕事を早く終わらせたい、とでも言いたげだった。


「…ここは? 俺は、確か…トラックに…」


「うん、そうだね。単刀直入に言うよ。君は、死んだ」


 その天使は、あっさりと、残酷な事実を告げた。


 頭が、真っ白になる。死んだ? 俺が? あの瞬間に?


「そんな…」


「まあ、落ち着いて聞いてほしい。実は、君の死はこちらの完全な手違いでね」


 手違い?


 その言葉に、俺の脳裏に、今まで読んできた数多の物語の記憶が、稲妻のように閃いた。


 トラックによる唐突な死。目の前に現れた、人ならざる美しい存在。そして、「手違い」という、あまりにも都合の良い言い訳。


 まさか、これって…。


 神様のミスで死んじゃった主人公。お詫びにもらうチート能力。そして、異世界への転生。


まさか。そんな、都合の良い話が…。


「…それで? お詫びってわけか?」


 自暴自棄になっていたせいか、自分でも驚くほど、不遜な口調が出た。


 俺の思考を読んだかのように、しかし、天使は気にした様子もなく、こくりと頷いた。


「理解が早くて助かるよ。僕はアズリエル。天界の使い走りさ。君を死なせてしまったお詫びに、いくつか選択肢を用意した」


 彼は、指を一本立てる。


「一つは、君が死ぬ直前の状態に戻し、君のいた世界――地球に生き返らせること。ただ、一度失った命を元に戻すのは大変でね。多少の後遺症が残るかもしれないけど、そこは我慢してほしい」


 そして、二本目の指を立てた。


「もう一つは、記憶を持ったまま、別の世界に転生すること。もちろん、お詫びのしるしとして、ささやかながら特別な力(チート)も授けよう」


 地球に、帰る…。


 その言葉に、俺の脳裏に、あのファミリーレストランの光景が蘇る。ミホの涙。ユウトの冷たい宣告。ゴミ捨て場に投げ捨てた、スケッチブック。


 帰ったところで、俺に何がある?


 親の脛をかじり、描けない漫画の夢にすがりつき、仲間も、情熱も、全て失った、あの色褪せた部屋に戻るだけだ。


 …もう、いいか。


「異世界に、行きます」


 俺の答えに、アズリエルは「そう」とだけ呟き、満足そうに微笑んだ。


「賢明な判断だ。じゃあ、君に力を授けよう。君が行く世界『アルステラ』は、魔法が存在する世界だ。君には、全ての属性の魔法を使える才能と、それを支える膨大な魔力を与える」


 アズリエルが俺の額にそっと触れると、温かい光が流れ込んでくる。


「魔法は、大きく分けて七つの属性がある。赤は火、青は水、黄は土、緑は風、紫は雷、白は光、そして黒は闇。君なら、その全てを自在に操れるだろう。言語も、不自由がないように調整しておくよ」


 赤は火、青は水…。聞き馴染んだ設定に、俺は少しだけ安堵していた。


 これなら、俺でも、やれるかもしれない。


「さて、準備はいいかな?」


 アズリエルが言うと、俺の足元が、まるでインクを垂らしたように黒く染まり、円形の穴となって広がっていく。その縁は、星屑のように微かな白い光で縁取られていた。その先は、どこまでも深い闇。


「それじゃあ、新しい人生、楽しんで。…まあ、君なら、大丈夫だろうけど」


 最後に聞こえた彼の声は、なぜだか、全てを見透かしたような響きを持っていた。


 そして俺の意識は、真っ逆さまに、その心地よい闇の中へと落ちていった。

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