第二話:色のない男と、色づく世界

 心地よい闇からの浮上は、唐突だった。


 最初に感じたのは、鼻をつく、むせ返るような生命の匂い。湿った土と、むき出しの樹皮、そして知らない花の、甘ったるい蜜の香り。次いで、背中に感じる柔らかな苔の感触。耳に届くのは、聞いたこともない鳥たちの、甲高い鳴き声。


 ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、あまりに鮮烈な「色」だった。


 空は、絵の具を溶かしたような、どこまでも深い瑠璃色。木々の葉は、一枚一枚が宝石のように輝くエメラルド。足元に咲く名も知らぬ花々は、血のように鮮やかな真紅や、吸い込まれそうな深い紫といった、ありえないほどの原色を放っている。木々の間から差し込む光は、金色にきらめいていた。


 まるで、世界中の彩度を最大まで引き上げたような、狂気的なまでに美しい世界。


 俺は、おもむろに自分の手を見た。引きこもり生活で日に焼けていない、不健康なほど白い肌。着ているのは、あの夜と同じ、よれよれの黒いパーカーとジーンズ。


 この鮮やかすぎる世界の中で、俺という存在だけが、まるでモノクロ写真の切り抜きみたいに、色を持っていなかった。


 色褪せた自室で、何年も、色を持たない夢を描き続けてきた俺にとって、その光景は、あまりに、あまりに眩しすぎた。


「……異世界、か」


 誰に言うでもなく呟いた声は、掠れていた。


 そうだ、俺は死んで、ここに来たんだ。今更ながら背筋が凍る。天使の言葉通りなら、ここはアルステラ。だが、心地よい森の空気は、俺の不安を少しも和らげてくれなかった。


 とにかく、確認だ。やるべきことは決まっている。


「……ステータス、オープン」


 少しだけ恥ずかしいが、背に腹は代えられない。俺は、震える声で、そう唱えた。


 すると、目の前に半透明のウィンドウが、ゲームのように浮かび上がる。本当にあったのかよ、とツッコミを入れる気力もなかった。表示された文字を、俺は貪るように目で追う。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

名前: イッシキ・トオル

レベル: 1

HP: 10/10

MP: ???

属性: 無色

称号: ニート, サークル追放者

体力: 8/10

魔力: ∞

筋力: 5

知力: 12

幸運: 1

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「……ひでえな、これ」


 思わず声が漏れた。魔力が無限なのはチートっぽいけど、他のステータスは軒並み低い。特に幸運1ってなんだ。俺の人生そのものじゃないか。


 そして、何より気になるのが【属性:無色】という表示だ。アズリエルは、全属性の才能をくれると言っていたはずだ。虹色とかじゃなくて、無色? 才能がない、という意味にも取れる。嫌な予感しかしなかった。


 とにかく、魔法を試してみよう。


 アズリエルは言っていた。「赤は火」。一番シンプルで、分かりやすい。


 俺は右手を前に突き出し、意識を集中させる。脳裏に、漫画で描いてきた炎のイメージを思い浮かべる。燃えろ、燃えろ、と。


「――ファイア!」


 指先に、ぽっ、と小さな音がして、何かが灯った。


 それは、ライターの火ほどの、か細く、頼りない炎だった。数秒揺らめいた後、虚しく消えてしまう。


 後に残ったのは、魔力を使ったことによる、軽い疲労感だけだった。


「……これっぽっちか」


 思わず、ため息が漏れる。最強チートで楽々サバイバル、なんていう甘い考えは、この瞬間に捨て去ることにした。


 どうやら、この世界は、俺が夢見ていたような、都合の良い物語の舞台ではないらしい。


 まあ、いい。どうせ、地球にいたって、俺に居場所はなかったんだから。


 俺は、地面に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げ、杖代わりにする。まずは、この森を抜けて、人がいる場所を探す。ただ、それだけだ。

 どれくらい、歩いただろうか。喉はカラカラで、足は棒のようだ。


 心が折れかけた、まさにその時、不意に木々が途切れ、一本の街道らしき道が見えた。助かった、と思った、その瞬間だった。


 ――キャアアアアッ!


 道の先、カーブの向こうから、若い女性のものと思しき、甲高い悲鳴が響き渡った。


 続いて、腹の底に響くような、獣の咆哮。


 そして、バキリ!と、硬い木がへし折れる、破壊的な激突音。


 俺は、音のした方へと、茂みを掻き分けて駆け寄った。


 そこにあったのは、半壊した馬車と、倒れた護衛たち。


 そして、その馬車に巨大な棍棒を振り上げている、醜悪な赤褐色の肌の巨人――オーガの姿だった。


 俺の目の前で、読み慣れた「テンプレ」が、あまりにも生々しい現実として展開されていた。


 オーガの、血走った目が、こちらを向いた、気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る